マタイによる福音書 QT40 20210226金【視線が向かうところ】マタイ 18章 1~9
マタイ 18章 1~918:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。 「天の御国では、だれが一番偉いのですか。」という弟子たちの質問にイエス様は3節から7節で、「子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」と言われます。「子どものように自分を低くする人」と言われました。 「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」とし、その文脈は、10節に行って、「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい…」という言葉に一段落されます。 疑問に思ったのは、その間に8節と9節が挿入され、その内容が「罪を犯すことに対する重大な警告」という点です。「手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい…目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」ということです。18章の文脈から読めば「手と足と目の罪」というのは弱者をさげすむということが明らかです。 ところが、この警告は、5章の「八つの幸い」に続く性的欲求を抱いたことに対する御言葉と同じです。十戒の姦淫禁止を解釈するときに、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」としましたが、それを警戒し、「目がつまずかせるなら、えぐり出し、手がつまずかせるなら、切って捨てなさい」と言われました。 というわけで5章に戻って読み直してみると、5章の流れも「最も小さい者、憎むの兄弟、性欲の対象となる女性、離婚される妻」という弱者に対する律法的解釈であることがわかりました。 今日の本文18章も「失われた一匹の羊という弱者を探しに出ていく羊飼い(12)」につながって「罪を犯した兄弟のための執り成し(20)」と「犯罪した兄弟の赦し(22)」「一万タラントを借りた者」の話しで18章全体が続きます。 19章、20章も変わりありません。肉体の弱い病人を癒し、社会的に弱い女性、妻と幼い子どものための権利をあげています。ですから弱者らはイエス様の中に入って来ますが、19章にある道徳的に経済的に弱くない富んでいる若者だけがイエス様の外の方にに出ていって消えます。 「弱者のために」という進歩的なスローガンと「イエス様に従う」という信仰の宣言は、政治家を支持することではなく、自分が向けている視線はどこにあるのか、自分の足はどこへ向かっているのか、自分の手は何に触れているのかが証明してくださいます。