マタイによる福音書 QT41 20210227土【失われた一匹の羊の正体】マタイ 18章 10~20
マタイ 18章 10~2018:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。18:11 1118:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」 昨日の本文の「天の御国ではだれが一番偉いか。」という質問にイエス様の答えは「弱者に配慮する者」でした。「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。10」これが文脈上の結論です。 そして、イエス様はこれを敷衍するために「失われた羊のたとえ」を話されます。百匹の羊を飼っている羊飼いが羊一匹を失ったとすれば、その羊飼いは九十九匹を山に残したまま失われた羊を探しに行くということです。九十九匹が残っていても羊飼いは、失われた一匹の羊に心を奪われてしまうからです。 それは、義務や責任の問題よりも、心の問題です。ですから、聖書では「雇い人」を否定的に描写します。雇い人とは報酬を受けて働いている人ですから悪い人ではありません。問題はお金を受け取った分その時間の仕事はしますが、それを大切にする心はないということです。 九十九匹の安全性を放っておいて一匹の羊を探しにいくことが合理的かという質問はあり得ますが、この比喩は失われた羊を見つける方法論ではありません。羊飼いの心を表しているのです。この比喩は、13節で終わったものの、14節から、このたとえを通して、イエス様がなさろうとすることを言われます。「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。14,15」 「このように…もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」羊飼いが失った羊を探しに出て行くように罪を犯した兄弟の信仰を回復させろということです。失われた一匹の羊を描いた画家たちは皆かわいい子羊を描きましたが、イエス様が言われた失われた一匹の羊とは、関係の問題、道徳の問題、信仰の問題の理由で共同体から去ってしまった人です。 先に一匹の羊を探していくことが羊を見つける方法論ではなく、羊飼いの心であるといいましたが、方法は、15節〜17節に出てきます。「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」 繰り返し勧め、本音を確認する過程を経るということは、共同体においても本人においても大切なことです。九十九匹が大切であるように共同体全体は大切だからです。しかし、ここでより大切に読まなければならない点は、これらの回復が、本人で主体的に行うことができることではないということです。失われた羊は自ら戻ってきません。隣人が関心を持って訪ね、共同体が協力してとりなしながら説得し、神様の権威を委任されている教会が御言葉を持って勧め、警告しなければなられることです。 イエス様の方法論は、18節以降も続きます。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」ということです。私が赦し、私が回復させるなら、天においても赦され、回復されます。しかし、私が放置し、放棄すれば、彼らの地においても天においても縛られます。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。20:23」 イエス様が言われる弱者保護は大きな福祉事業ではなく、共同体の外に出ていて見えなくなってしまった人です。その人がいなければもしかして共同体はむしろ平和になるかも分かりません。しかし、それを回復しなさいということです。羊がそうであるように共同体も互いに相違を認めて一緒に生きるのです。 イエス様は本文の最後においてこれらを達成することのできる最も完全な方法を教えてくださいなす。「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。18~20」 ここで、「何でも」というのは、アラジンのランプの願いではなく、どんな人のどんなに大きな罪であってもとりなしと愛の祈りがあるならという意味です。「心を合わせて→祈る→かなえてくださる→その中にいる」お祈り、勧めると、これがかなえられます。共同体の中に神様がともにおられます。 教会に通った人だけではありません。神様を離れたすべての人は回復しなければならないのではないでしょうか。新たに移転牧場にたくさんの失われた羊が戻ってくること願います。移転のために工事べきことが多くありますが、戻ってくる羊を迎えるとりなしの心をもって奉仕ができればと願います。