マタイによる福音書 QT20 20210203水【祈るべき働き人】マタイ 9章 27~38
マタイ 9章 27~389:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 目の見えない人は視覚障害者です。そして口のきけない人は言語障害者でありますが、話せない言語障害は、多くの場合に聴けない聴覚障害を伴います。聴覚に障害があるため聴いたことがありません。だから言語を学べません。イエス様は目の見えない人をいやして見えるよにし、口のきけない人をいやし、聴けるようにしてくださいました。 世界はあるが、目に見えず、音はあるが、聞こえず、口はあるが、表現ができなかったのは、世界がなかったも同然です。見えなく、聞えなく、言えないようにしたのは、その中に入っていた悪霊であると言います。イエス様がそれを追い出し、目と耳と口を開けてくださって見える、聴ける、言えるよいうにしてくださったのは天地創造のような恵みです。目の見えない人と口のきけない人はこれで新しく生まれ変われました。 おそらくマタイがイエス様を訪ねてきた障害者を順番に紹介しているのではないと思います。目の見えない人、口のきけない人の治癒の本質は、身体障害の治療ではありません。視覚認知の能力はあるが、実体が見られない人、聴覚能力はあるが、聞くべきことが聞けない人、言語能力はあるが、言うべきことを言えない人です。これこそが目の見えない人であって、口のきけない人です。 イエス様がともにおられても、それを見ることができない人が目の見えない人であり、神様が言われても聞こえない人が耳の聞こえない人です。神様のなさることを見たことがなく、聞いたことがなく、経験したことがないから、証しができません。その名をほめたたえることができない人が口のきけない人です。 毎朝QTの解説や黙想を書いていますが、御言葉を見ても見えず、聞いても聞こえない時が多いです。意味が分からないから話すことも書くこともできません。目で読むことでわきまえるのではなく、耳に聞こえることだけが真実なわけではなく、口で言うからといって証しになるのではありません。目の見えない人が目の見えない人を導くことはできないと言われたとおり、目に見えないのに先をたどっているのは堪え難いことです。 障害を癒されたイエス様は、見えず、聞こえず、言わない民たちを羊飼いのいない羊のようにあわれみました。そして収穫は多いが、働き人が少ないので収穫する働き人のために祈るようにとされました。収穫する働き人が何をすべきなのかは明らかになりました。 今日の教会は、改革の時を迎えています。改革という時代のニーズに答えなければ、社会の中の宗教団体としての教会は滅びます。この時代の教会に送ってくださるべき神様の働き人、すなわちすべてのクリスチャンが準備し、訓練しなければならすることは、神様の目で世界を見る世界観(Worldview)を持って、読み(Reading)、聞き(Listening)、語り(Speaking)、書く(Writing)ことです。