マタイによる福音書 QT51 20210311木【カエサルのものと神のもの】マタイ 22章 15~22
マタイ 22章 15~2222:15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。22:16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。22:17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」22:18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。22:19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。22:20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」22:21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」22:22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。 パリサイ人とヘロデ党は結託して、イエス様にローマ帝国に税金を納付すべきなのかという質問をします。彼らはヘロデに従う政治団体に他ならない者たちで、そのヘロデはローマの皇帝カエサル(Caesar)によって統治権が与えられていました。カエサルは、ローマ皇帝の固有名詞でありましたが、当時一般的名詞になって皇帝を意味する言葉で通用していました。本文のカエサルがシーザです。 もしイエス様がカエサルに税金を納めなくてもよいと言うと、ローマの植民地政府に扇動などの反政府疑いで訴えられるものであり、税金を納めるべきと言うと、ローマの搾取に苦しむ民たちはイエス様に失望します。幼稚なジレンマを用いて世論戦の落とし穴を掘っていたのです。 イエス様はローマのデナリ銀貨に刻まれた形状が誰の顔かと尋ねられます。そこには皇帝カエサルの顔が刻まれています。裏面には、聖なるアウグストゥスの子、最高司祭であるティベリウス・カエサルと書かれています。イエス様はそれを見て「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。21」と言われます。 私たちは、これをたとえ不正を行う国においても一定の税金を納めるべきであるという意味で解釈します。もちろん、それは一次的な解釈で間違いないことだと思います。私たちにも、原則的には同じですが、私たちの事情は、植民地のユダヤとは少し違います。国民は定められた納税に対する義務を負いますが、同時に税金が正当に収められて正しく使われるように立法と行政を選出し、監視することができます。そうしなければなりません。 本文において税金の問題についてはこのような整理をすることはできますが、今朝の本文の核心はこれではありません。彼らの目的は、納税かどうかについて学びたいもののではなくて、イエス様を政治的落とし穴に入れようとしたものます。質問の意図が税金の問題ではなかったので、イエス様の答えにも彼らの意図を指摘するような答えであると思います。 彼らはイエス様を宗教という枠組みに閉じ込めた後、政治を利用し、宗教を脅かし、宗教を利用して、政治に媚びている人でした。そして、それらの究極的な目的は、経済的な利益です。経済と政治と宗教が持つそれぞれの原理が異なるにもかかわらず、彼らの質問には、これらが無理に絡められています。もちろん、神様は宗教に閉じこまれる方ではありません。 イエス様が言われるのは、バランスと分別についてです。神格化した皇帝の顔が描かれたお金は、皇帝に与えなさいということです。ただ、神様を政治的、経済的な論理で利用してはいけないということです。教会の中で、政治的な理念が極端に対立し、教会が資本主義の論理によって経営されている時代に、神様のものを神に捧げるということが何なのか腐心しなければありません。