マタイによる福音書 Q609 20210322月【タラントの終末論】マタイ 25章 14~30
マタイ 25章 14~3025:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』 25章では、3つの比喩があります。まずは昨日の本文の十人の処女たちの比喩であり、次が今朝のタラント比喩、最後に羊とヤギの比喩です。これには、終末論という一連の主題があります。十人の処女たちのたとえが言う核心は、時を予測する緊張状態ではなく、花婿がきて欲しいという期待する心でした。来られるならばいいと思えば、もし遅くなっても寧に準備しますが、来ないでほしいとなっれば、すぐ来られるとしても、先延ばしてしまうからです。 タラントを受けたしもべの心も同様です。主人を待っている心の問題です。五タラントと二タラントを受けたしもべは商売して利益を残し、賞賛を受けました。その日が恐いから緊張し生きたのではなく、その日に主人が来て喜ぶこと、賞賛してくださることを期待しながら生きました。 だから五タラントと二タラントを受けたしもべの賞賛は、文字一つも違わないで同じです。たくさんの利益を残したもの、少ない利益を残したものは利益の量の差は重要ではありません。与えられたのは、異なりますが、それぞれの能力に基づいて評価は公平です。もしそれが自己所有になるならば、不公平だとを言えるかもしれませんが、すべてのものが主人のものであると認めるなら不公平はありませんし、主人の決算と評価がその量を測っているのではないから、完全に公平です。 しかし、一タラントを受けたしもべは、誤解しました。誤解というより意図的に悪です。神様にすべてを委ねた、と言いながら、与えられた信仰の責任を負わはない人です。無責任と怠惰を信仰に飾る場合です。そのような人に終末と再臨ということは面倒なフィクションに過ぎません。 何もしていないことが、神様の主権を認めたり、神様に任せたりしたことではありません。神様に任せたと言って、その時間に自分がしていること、その時間に自分が所有しているものは、すなわち偽となり、それが自分を支配している主人です。神様は、だまされません。 タラントの比喩には与えられた資源を責任を持って活用するという一次的な教訓は確かにあります。しかし、マタイの文脈は、資金運用や賜物の活用を教えようとしているのではなく、終わりを待っている聖徒の姿勢を扱っています。主を待つ心が信仰であり、その信仰があれば、人生に対する態度においても、与えられた賜物を活用する姿勢においても変わります。