マタイによる福音書 QT66 20210329月【ペテロの裏切り】マタイ 26章 69~75
マタイ 26章 69~75 26:69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」26:70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。26:71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」26:72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。26:73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」26:74 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。26:75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。 マタイの福音書の主人公はここでしばらく変わります。イエス様は登場せず、ペテロが主役になりますが、テーマはまさに裏切りです。ペテロは、身の安全を確保するために三度、イエス様を知らないと答えます。注目したいのは、その程度が最初は「否定」、その後は「誓い」となり、最後は「呪い」になっていくという点です。偽りを貫くためにイエス様を呪ってしまいました。 誰でもイエス様を裏切ることができます。しかし、教会に失望したとか、自分の信仰が足なかったとかなどの言葉は、自己憐憫のゆえに美化したことにすぎません。イエス様を裏切る唯一の理由は、自分のためです。ユダの場合も、ペテロの場合も、パリサイ人や祭司やピラトの場合も、殺しなさいと叫んだ群衆の場合も同じです。 イエス様は私のために血を流しに行きますが、イエス様のために涙一滴、汗一滴も流せない利己的なのが、人間だからです。それでもイエス様は失望されなかったでしょう。なぜなら、人間というのは自己愛に満ちた希望のない利己主義者であることを知っておられるからです。それが罪であり、それに代わって十字架にかけられたのです。赦しのための十字架を裏切っているペテロの裏切りのパラドックスが悽絶です。 「ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。75」泣いているペテロに必要なのは、励まし、慰めにではなく、さらなる涙です。もっと泣かなければありません。ペテロは、夜明けの鶏が泣くたびにこのことが思い出され、庭に出ていて泣いていたと伝われますが、それも仕方がないことです。記憶に残っている後悔までも洗うことはできないからです。 一滴の血も残さず、すべて流されて死なれたイエス様の十字架の上で、裏切り者の涙さえ免除するなら、回復の道はありません。安っぽい赦しと励しは魂を救うことができません。それらはお金さえあれば、世からでも手に入れるようなものです。ペテロは悔恨の涙の中で福音が何であるかを発見したのです。