マタイによる福音書 QT67 20210330火【ユダの死】マタイ 27章 1~10
マタイ 27章 1~1027:1 さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。27:2 そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。27:3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。27:4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」27:5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。27:6 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」27:7 そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。27:8 このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。27:9 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。27:10 主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」 ペテロの話しとユダの話しは十字架を前にして並列的に記述されています。マタイの編集の意図は、この二人の出来事を比較しているようです。ペテロの後悔は、消極的なもので涙を流すだけであって、意志的決断や改心のようなものはありませんでした。自分の過ちを痛感しましたが、それでも恐れのせいで意志的な宣言も行動も何もできませんでした。 一方、ユダの場合は、意志的に、イエス様を売りましたが、また、意志的にお金を返そうとしました。イエス様を売って受け取ったお金は、銀貨30シェケル。ユダはそれを返そうとしましたが、大祭司は受け取らなかったので、ユダはそれを神殿に投げ入れ、自ら死んでしまいます。すべてが一方的です。生きようとする悔い改めではなく死のうとする自虐であると同時に放棄でした。 銀貨30シェケルには二つの意味があります。イエス様を売って受け取ったお金という意味と犯した罪を赦される福音という機会を拒否してしまったお金という意味です。裏切ったペテロは、十字架の恵みによって福音の伝道者となりましたが、ユダは自分自身を放棄しました。ペテロは後悔の中で十字架の福音を発見しましたが、ユダは最後まで十字架の福音に気付かずにあきらめてしまいました。 消せない罪を犯したのではなく、罪を洗うことができる方法を知らなくて自ら放棄したのです。銀貨30シェケルでイエス様を売り、またそのお金で福音を代わりにしました。イエス様の価値が銀貨30シェケルにあるわけがないように、返した30シェケルに贖罪の価値があるわけがありません。十字架の福音の前で最も悪い罪というのは、間違うこと、倒れることではなく、神様の恵みを自ら制限すること、それによって自分自身を放棄することです。