出エジプト記 QT7 20210412月【協力の賜物】出エジプト 4章 10~17
出エジプト記 4章 10~174:10 モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」4:11 主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」4:13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。4:15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。4:16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。4:17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」 神様は出エジプトのためにモーセを送ろうとしますが、モーセは頑なに拒みます。行きたくないということより、現実的に不可能だと考えていたからです。昨日の本文で、神様は杖を蛇に変え、再び蛇を杖にします。ヘビと杖というのは逆説です。杖は身を寄せているものですが、その杖が脅威的なヘビになり、ヘビは再び杖に変わるからです。神様はモーセに蛇の尾をつかむように言われます。ヘビをつかむときは頭をつかまなければなりません。尾をつかむと蛇が手を噛むからです。この逆説は神様の力を示すためです。神様は人の考えで不可能なことであってもそれを成し遂げる方であり、危険なことであっても、安全に守られる方です。 それでもモーセの確固たる信念は変わりません。モーセは自分が行けない理由として「口が重く、舌が重い」と言います。弁舌が優れてないないということです。口が上手な人もそうではない人も神様がお造りになりました。神様が言葉を預けるならできないことはないと言われますが、モーセはまだまだ自分の判断に閉じこもっています。モーセは、自分ではなく、他のより有能な人を送ってくださいと願います。神様は怒りましたが(14)ここでさらに具体的な代案を提示します。モーセの兄弟アロンが口が上手だからモーセが考え、アロンにしゃべらせるということです。 賜物を与えてくださる方は神様です。造られたのが神様であるため、人を神様の働きをにする際に才能や能力を与えることも神様の御業です。数多くの自己啓発書を読むことより、神様の働きに参加することが、自分を啓発するために最もよい機会なのです。よくできる人を見つけて用いるのではなく、召した人に相当する力を与えてくださいます。一人で羊飼いをしていたモーセが40年間、何百万人のイスラエルの民を導き、危機と混乱の状況の中で優れたリーダーシップを発揮したのは、神様がモーセのリーダーシップを用いたのではなく、モーセに相応しい力を与えてくださったからです。 モーセが言葉使いが鈍いと言いましたから神様はモーセに弁舌の賜物を与えればよかった。しかし、神様は弁舌のアロンをともにしてくださいました。神様の賜物を一人にすべて集中させるなら、最終的には何もできなくなります。賜物の中で最も良い賜物は協力の賜物です。さまざま神様からの賜物が神様の働きのために協力するのです。Ⅰコリントの手紙によると、賜物の中で最も優れた賜物は愛であります。愛がなければ良い賜物を受けたといしても活用できなくなります。多くの賜物を受けるよりさらに優れたことは、皆で一緒に働くことができる協力の賜物です。しかし、愛がなければ協力はできません。愛がなければ神様から受けた賜物と機会は死蔵してしまうのです。