出エジプト記 QT22 20210429木【闇に戻る】出エジプト 10章 21~29
出エジプト記 10章 21~2910:21 主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」10:22 モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。10:23 人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。10:24 ファラオはモーセを呼んで言った。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」10:25 モーセは言った。「あなた自身が、いけにえと全焼のささげ物を直接私たちに下さって、私たちが、自分たちの神、主にいけにえを献げられるようにしなければなりません。10:26 私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。しかも、あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」10:27 しかし、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。10:28 ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」10:29 モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」 第九の災いは暗闇の災いです。3日間闇になりました。物理的に闇は存在しません。闇ができたのではなく、光が消えたのです。光がないのが闇です。誰かに呪いを浴びせてもそれが呪いになるわけではありません。神様と断たれてしまうのが呪いです。 昨日の水曜礼拝で詩篇12篇を読みました。ダビデは「なぜこの世に不義と悪、不条理が存在するのかと神様に胸痛く尋ねます。しかし彼らに不義と悪、不条理があるのではなく、彼らに神がいないのです。絶望があるのではなく希望が消えたのです。憎しみがあるのではなく、愛が消えたのです。 本を通じて多くを学んだイ・ジェチョル牧師と李御寧先生の対談の中でイ・オリョン先生の文学想像が印象深くて今も覚えています。アダムが造られた最初の日、夜になった時、漆黒の闇の中でアダムはいかに怖かっのかという想像です。 それは完璧な暗闇であったと思います。アダムは不安と恐怖を夜を過ごさなければならなかった。しかし、朝になると太陽は浮かびあがり、アダムは朝という希望があることを知りました。その時、アダムの宗教は始まったということです。 時間は流れて、李御寧先生はがんにかかり、闘病しています。あるインタビューで「私の宗教は、今から始める」と告白しました。死という暗闇に会ったとき、生きている存在は、光を願望します。照らされなければ存在を認めてもらうことは出来ません。照らされなければ存在は現れません。神様に照らされなければは人間の存在も人生の意味も役割も見つけられません。 神様が初めにお造りになったのが、光です。日がのぼってから一日が始まります。「神が光よ。あれ。と仰せられた。すると光ができた。3」その時、暗やみと混沌は消えました。初めに、神が「光よ。あれ。」と言われたの覚えていれば、エジプトに暗闇を下したのは、いかに恐ろしいことでしょうか。神様の恵みが遮られること、それが災いなのです。