【팬데믹 기행】
고향 가는 날, 깔끔하게 차려입고 공항에 갔다. 수속이 끝나면 커피 한 잔의 여유가 기다리고 있겠지. 그러나 탑승 수속 직원에게서 여권 기간이 만료되었다는 말을 들었다. 당황했지만 의심의 여지 없이 내가 옛날 여권을 가지고 온 것이라고 생각했다. 그것을 모른 채 유효기간이 지난 여권으로 PCR 검사를 받았고 항공권을 예약했다. 닭 쫓던 공항에서 지붕 위로 날아가는 비행기를 쳐다보며…
고향 가는 날, 깔끔하게 차려입고 공항에 갔다. 수속이 끝나면 커피 한 잔의 여유가 기다리고 있겠지. 그러나 탑승 수속 직원에게서 여권 기간이 만료되었다는 말을 들었다. 당황했지만 의심의 여지 없이 내가 옛날 여권을 가지고 온 것이라고 생각했다. 그것을 모른 채 유효기간이 지난 여권으로 PCR 검사를 받았고 항공권을 예약했다. 닭 쫓던 공항에서 지붕 위로 날아가는 비행기를 쳐다보며…
出エジプト記 24章 12~1824:12 主はモーセに言われた。 「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。 それは、彼らを教えるために、 わたしが書き記したおしえと命令である。 」24:13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。24:14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。 見よ、 アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。 訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」24:15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。24:16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。24:17 主の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった。24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。 神様が再びモーセを山に呼び、イスラエルに教える御言葉を書き記した石の板を与えると言われます。モーセはアロンとフルに群れを任せてヨシュアを連れて、より高いところに向かって登り始めます。雲がシナイ山をおおい、神様の栄光が山に留まりました。その栄光の中で神様は何も語らず、ただモーセを6日間待たせました。そして7日目に、神様はモーセを雲の中から呼びます。モーセはそこで四十昼夜何も口にしないで神様の戒めを受けます。神様はモーセを待たせました。待つ時間は無駄な時間ではありません。神様が待たせるのなら、それに理由と目的があるでしょう。待つというのは、神様のもうひとつの啓示です。 モーセだけが神様を待っていたのではなく、イスラエルの民も、モーセを待っていました。しかし、彼らは待つことを無駄だと思っていたようです。彼らは待ちくたびれ子牛に拝んでしました。待てない人たちです。十戒を見つけることは難しいことではありません。聖書カバーの内側には十戒が書かれています。神様はなくならないために、忘れないために、石の板に戒めを刻まれましたが、人の心は石よりも硬く、聖書は持っていますが、神様の戒めを心に刻みません。結果的に、神様から受けた石の板は民に伝わりません。モーセが偶像に拝んでいるイスラエルを見て、それを投げ、割ってしまったからです。 海千山千を経験した後の申命記で、モーセはこう言います。「命じるこれらのことばを心にとどめなさい 6」待たない人は、神様の約束があっても、それを受けられません。神様の御言葉を待ち望み、それを受け取るとき、石の上に刻むのではなく、心に刻まなければなりません。待つということと御言葉を受けることには関連があります。エゼキエルでは、「与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ」と表現し、ヨハネの黙示録でも、「それを取って食べなさい」と言われました。御言葉を待っている間、御言葉を慕うなら、それは石ではなく、心の板に刻まれます。
출애굽기 24장 12~18출24:12 여호와께서 모세에게 이르시되 너는 산에 올라 내게로 와서 거기있으라 너로 그들을 가르치려고 내가 율법과 계명을 친히 기록한 돌판을 네게 주리라출24:13 모세가 그 종자 여호수아와 함께 일어나 하나님의 산으로 올라가며출24:14 장로들에게 이르되 너희는 여기서 우리가 너희에게로 돌아오기까지 기다리라 아론과 훌이 너희와 함께하리니 무릇 일이 있는 자는 그들에게로 나아갈지니라 하고출24:15 모세가 산에 오르매 구름이…
出エジプト記 23章 14~3323:14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。23:15 種なしパンの祭りを守らなければならない。 わたしが命じたとおり、 アビブの月の定められた時に、 七日間、 種なしパンを食べなければならない。 それは、 その月にあなたがエジプトを出たからである。 何も持たずにわたしの前に出てはならない。23:16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。23:17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。23:18 わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。23:19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。23:20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。23:21 あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。 わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。23:22 しかし、 もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、 わたしはあなたの敵には敵となり、 あなたの仇には仇となる。23:23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去るとき、23:24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。23:25 あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。23:26 あなたの国には、流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの日数を満たす。23:27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする。23:28 わたしはまた、スズメバチをあなたの先に遣わす。これが、ヒビ人、カナン人、ヒッタイト人をあなたの前から追い払う。23:29 しかし、 わたしは彼らを一年のうちに、 あなたの前から追い払いはしない。 土地が荒れ果て、野の生き物が増え、あなたを害することのないようにするためである。23:30 あなたが増え広がって、その地を相続するまで、少しずつ、わたしは彼らをあなたの前から追い払う。23:31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からあの大河に至るまでとする。それは、わたしがその地に住んでいる者たちをあなたがたの手に渡し、あなたが彼らを自分の前から追い払うからである。23:32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。23:33 彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。」 本文には色々な内容を含んでいますが、読んでいくうちに19節で止まりました。「あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない」この命令は、申命記QTで読んだことがあります。これから出エジプト記34章でもう一度繰り返して出てきます。これは当時の近東世界で子やぎを母の乳で煮て食べる食事文化、あるいは宗教的な儀式があったということを証言するものでもあります。 乳に煮た子ヤギというのは、おそらく富を願うことだったと思います。神様はそれに反対です。乳とは、母体を絞って子に与えようとする命の糧です。授乳を通して母と子はつながり、命を共有します。人でも動物でもその中には崇高な献身と愛があるのです。その乳を絞ってから釜に注ぎ、その中に子やぎを入れて煮るというのは、どう考えても残酷しすぎな行為です。 神様はそのような文化を拒まれ、イスラエルがこれにならうことを警戒し、禁止されました。申命記22章では、親鳥と卵を一緒にとらないようにとし、レビ記22章では、牛も羊も、母と子を同じ日にとりことを禁じています。親の目の前で子ととってなならない、子の目の前で親をとってももいけません。 もちろん牛などは食用のためにとってもよいです。肉食は許可されています。しかし、屠畜は人間がします。屠り方においても、人間性は大事に守られなければなりません。やぎと鳥と牛のためではなく人のためなのです。命の価値を尊重しているとき、人間性は守られます。 申命記25章に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」という規定があります。パウロは、コリントの手書きテモテの手手紙から、これを2回引用しました。それとともに、それが、牛のためではなく、人のためれあると言っています。働く人の労働の補償のことですが、一方、働く牛の権利を確保してあげることを通じて人間性が保たれるという話でもあります。巨大な流通市場の中で、残酷で非人道的な屠殺が構造化されています。食用として使用される家畜であっても、それを屠殺する時でさえ、人間は常に命の尊厳と人間性ということを考えなければなりません。
출애굽기 23장 14~3323:14 너는 매년 삼차 내게 절기를 지킬지니라23:15 너는 무교병의 절기를 지키라 내가 네게 명한대로 아빕월의 정한때에 칠일동안 무교병을 먹을지니 이는 그 달에 네가 애굽에서 나왔음이라 빈 손으로 내게 보이지 말지니라23:16 맥추절을 지키라 이는 네가 수고하여 밭에 뿌린 것의 첫 열매를 거둠이니라 수장절을 지키라 이는 네가 수고하여 이룬 것을 연종에 밭에서부터 거두어 저장함이니라23:17 너의…
出エジプト記 23章 1~1323:1 偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。23:2 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。23:3 また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。23:4 あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。23:5 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。23:6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。23:7 偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。23:8 賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。23:9 あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。23:10 六年間は、あなたは地に種を蒔き、収穫をする。23:11 しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。23:12 六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。23:13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことを守らなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。 偽りのうわさを口にするというのは根拠のない流言飛語を言ってはならないということです。一部のマスコミによって自社記事検索数を増やすために流言飛語と甘言蜜語がはびこります。偽りを言う世は変わらないですが、その中に生きていく聖徒は真実をわきまえ、それを言わなければなりません。 「多数に従って悪の側に立ってはならない」イスラエルが金の子牛を作り、偶像崇拝をしていたのは、多数がそれを望んでいたからです。多数決の原則がありますが、多数の意見が常に正しいとはいえません。そして多数を利用した詐欺や暴力も存在します。多数が組織的、構造的な悪を行なう際に、信徒はその意図を読みとり、それによる圧制と被害の者の方に立たなければなりません。 「あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならないあなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。4,5」 これは法ですが、善良に生きることを命じる方法でもあります。法が罪を犯すことを制限することはできますが、法が善を行うように促すことはできますか?韓国では、いわば「善きサマリア人の法」があります。危険にさらされた人を救助していない人を処罰する法律です。 善きサマリア人の法は、韓国で始まったものではありません。すでに聖書の精神を受け継いだ国々から存在していた法でしたが、この間導入しました。ただ、韓国の法律には、救助していないことに対する罰則規定はなく、助ける過程で不本意に損害を与えた場合にのみ法律上の責任が免除されます。神様の法が悪を制限している基本的な目的は、愛と善を養うためのものです。
출애굽기 23장 1~1323:1 너는 허망한 풍설을 전파하지 말며 악인과 연합하여 무함하는 증인이 되지 말며23:2 다수를 따라 악을 행하지 말며 송사에 다수를 따라 부정당한 증거를 하지 말며23:3 가난한 자의 송사라고 편벽되이 두호하지 말지니라23:4 네가 만일 네 원수의 길 잃은 소나 나귀를 만나 거든 반드시 그 사람에게로 돌릴지며23:5 네가 만일 너를 미워하는 자의 나귀가 짐을 싣고 엎드러짐을…
出エジプト記 22章 16~3122:16 人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合、その人は必ず、彼女の花嫁料を払って彼女を自分の妻としなければならない。22:17 もしその父が彼女をその人に与えることを固く拒むなら、その人は処女の花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。22:18 呪術を行う女は生かしておいてはならない。22:19 動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。22:20 ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。22:21 寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。22:22 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。22:23 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。22:24 そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。22:25 もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。22:26 もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。22:27 それは彼のただ一つの覆い、 彼の肌をおおう衣だからである。 彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。 彼がわたしに向かって叫ぶとき、 わたしはそれを聞き入れる。 わたしは情け深いからである。22:28 神をののしってはならない。また、あなたの民の族長をのろってはならない。22:29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。22:30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。22:31 あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない。野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。 一つの社会の道徳は、環境と教育、目的や関心事によって多様に表われます。例えば、朝鮮時代の女性を支配した道徳は「七去」でした。七去は七つの離婚の理由で、その中には、息子を産めないこと、夫の浮気を嫉妬すること、言葉数の多い女、さらに持病があることも含まれていました。それに抵抗しないことが、女性の道徳でした。男性カルテルが作り上げた道徳です。 今朝の本文にある律法は、様々な規定が記されていて、何に目をおけばいいなのか分かりませんが、一貫した主題は「創造の秩序」という原則にあります。基準がない時代に、人々は、それぞれの目的に応じて任意に道徳を作ります。 しかし、神様の創造の秩序は明確です。一人の女性は、一人の男と結婚することで自由になり、美しくなります。本文には、獣姦まで出てきます。基準を知らずに、または基準から離れるということはいかに恐ろしいのでしょうか?自由は、神様の秩序の中にあります。 弱者を無視し、苦しめないことを、創造の秩序と言えるのは、神様はやもめとみなしごと寄留者のような弱者が必要とするものを、社会を通して与えるからです。社会が神様の秩序を保っていなければ弱者は苦しみます。 神様の秩序は共生でありますが、かえって社会が搾取し、差別を行うなら、それが神様の創造の秩序を犯すことになります。家庭、宗教、社会、性、経済、すべての領域において、神様の秩序という基準を見つけ、それを時代の道徳に戻すことが、教会と信徒の使命です。
출애굽기 22장 16~3122:16 사람이 정혼하지 아니한 처녀를 꾀어 동침하였으면 빙폐를 드려 아내로 삼을 것이요22:17 만일 그 아비가 그로 그에게 주기를 거절하면 그는 처녀에게 빙폐하는 일례로 돈을 낼지니라22:18 너는 무당을 살려 두지 말지니라22:19 짐승과 행음하는 자는 반드시 죽일지니라22:20 여호와 외에 다른 신에게 희생을 드리는 자는 멸할지니라22:21 너는 이방 나그네를 압제하지 말며 그들을 학대하지 말라 너희도 애굽…
出エジプト記 22章 1~1522:1 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。22:2 もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、 打った者に血の責任はない。22:3 もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にある。盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし盗人が何も持っていなければ、盗みの代償としてその人自身が売られなければならない。22:4 もしも、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗んだ物が生きたままで彼の手もとにあるのが確認されたなら、それを二倍にして償わなければならない。22:5 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。22:6 また、火が出て茨に燃え移り、積み上げた穀物の束、刈られていない麦穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、その火を出した者は必ず償いをしなければならない。22:7 人が金銭あるいは物品を隣人に預けて保管してもらい、それがその人の家から盗まれた場合、もしその盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。22:8 もし盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならない。22:9 所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。22:10 人が、ろば、牛、羊、またいかなる家畜でも、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合、22:11 隣人の所有物に決して手を触れなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主はこれを受け入れなければならない。隣人は償いをする必要はない。22:12 しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければならない。22:13 もしも、それが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければならない。かみ裂かれたものの償いをする必要はない。22:14 人が隣人から家畜を借り、それが負傷するか死ぬかして、その持ち主が一緒にいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。22:15 もし持ち主が一緒にいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りした家畜であれば、 その借り賃は払わなければならない。 牛や羊を盗んでそれを殺すか、売ってしまった場合、値の4,5倍を賠償しなければなりません。もし未だ自分の手元にある場合は2倍の賠償となります。他の規定に比べて盗む罪はより厳しいです。2倍から5倍までを賠償しなければならないし、賠償する能力がなければ自分の奴隷としてを売られるまで、その責任を履行しなければなりません。 聖徒は、自分の行動に責任を負う者であります。泥棒というのは他人のものを盗むと同時に、自分自身をだますものです。飢えてパンが盗む泥棒がいますが、一方、ネクタイをしめた泥棒や地位の高い泥棒も大勢います。泥棒は信用できません。 9節では、他人の物を預かって保管してから、それを欲しがり、自分の所有と主張した場合、それも泥棒なので2倍の賠償です。元の所有者が預けたのは信じていたからです。しかし、それを捨てて貪って信用できない者になりました。 5節では、自分が所有している家畜を放牧していて、その家畜が他人の畑やぶどう園に入って損害を負わせたならば、所有者は、自分の産物の中で最も良いものをもって賠償しなければなりません。読んでいると、律法の精神は、賠償の義務を重く、厳しくするためではなく、最も良いものを準備して、その中にあやまりの気持ちを込めるのです。 自分の畑に火をつけてその火が他の人の畑や穀物に害を与えた場合にも必ず賠償しなければなりません。ただし故意はないということで情状酌量はしますが、すでに損害が存在する限り責任は負わなければなりません。これはもしかして賠償という損ではなく、信用を守れる最後のチャンスかもしれません。 被害を与えた人に謝罪せず、補償もせず、神様に赦されたと言う場合がありますが、それは社会的にも信仰的にも容認できません。自分の心の中に偶像を作って、自分のために架空の神に言わせるだけです。バプテスマのヨハネが言われた通りに悔い改めるなら、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。 この律法の意図に、共同体の信用を大切にしていることが分かります。お金にかかわる信用は大切ですが、信用は銀行のみが評価するものではありません。映画が終わるとスタッフの名前が画面に流されますが、これをクロージングクレジット(closing credits)と呼びます。映画監督ジョージ・ルーカスが青春グラフィティ(American Graffiti)という映画を撮りましたが、お金がなく、スタッフに報酬を与えなかったことで、すべてのステップの名前をエンディングにあげたことから始まった言葉です。 彼らはお金をもらえませんでしたが、皆で一緒に映画を完成しました。それぞれの欲ではなく、共同体の価値を共有する人はまさに信用できる人です。信用できる人たちによって映画は完成されました。信用できる共同体の一員として与えられた責任を果たし、その日にあるべきクロージングクレジットに自分の名前も上げられることを祈ります。