出エジプト記 QT40 20210520金【近づけない神の御怒り】出エジプト 19章 16~25
出エジプト記 19章 16~2519:16 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17 モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18 シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19:19 角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。19:20 主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。19:21 主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。19:22 主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」19:23 モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」19:24 主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」19:25 そこでモーセは民のところに下りて行き、彼らに告げた。 イスラエルの民はエジプトを出てから3ヶ月後、つまりペンテコステになるときにシナイ山に着きました。神様はシナイ山で、イスラエルとともに契約を結ばれます。ところが、この契約が、初めてではありません。神様がアブラハム、イサク、ヤコブに言われたあの契約が成就され、具体化されていきます。神様の契約は、継承され、更新され、発展していきます。神様の約束どおりにイスラエルは大きな民族を遂げ、今は、神様とその共同体が契約をしているのです。 契約の日の朝から雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が鳴り響きました。山全体が火のつくようであってラッパの音が鳴りました。喜びと平和ではなく、大きな恐怖でした。ヘブル12章では、モーセ自身も深く恐れ震えると伝えます。神様の顕現は恐怖そのものだった。契約を立てる過程で、神様は、民が山に近づかないようにと警告されます。山に上がってくる者は必ず死ぬことを意味しています。 教会はできるだけ多くの人に伝道し、礼拝をささげることを勧めしますが、原則的に礼拝というのは、誰にでも許可されているものではありません。なぜなら、神様は、今怒り中におられるからです。御怒りの中におられる神様の前に恐れずに進む人はいません。罪を持った人間が聖なる神様に会うことになれば、御怒りのゆえに生き残る人間はいません。 人間が近づくと、神様が怒りを発すると言われます。神様は、罪を憎む、その怒りを隠しません。エペスの手紙によれば、人間は本質上怒りの子です。人間本来の本質的属性が罪によって滅びるしかない神様の怒りの対象であるということです。そして、神様の怒りは今も終わっていません。神様は愛であられるので、神様は今も罪に対して怒っておられます。 ただし、その怒りの中、例外的に憐れみの装置があります。モーセとアロンは神様のところに行くことが許されました。アロンは祭司になるため許可されました。レビ記で読んでいますが、イスラエルは神様の怒りの前に獣の血を流し、アロンの子の祭司を通して礼拝しました。 そして、ヘブル人への手紙を読んでいるように、大祭司はメルキゼデクの列に倣う、イエス・キリストです。イエス・キリストを通るときに怒りの中で憐れみを受けるのです。それによって礼拝できるようになったのです。ですから救いです。イエス様の血がなければ、人間の終わらない罪のゆえに終わらない神様の怒りによって未だに礼拝はできません。 人間の本質を怒りの子と定めたエペソ2章3節から続く4節以降は、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。4,5」と述べました。 さらに続く14,16節で「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」イエスの血によって、憐れみの道が開かれ、礼拝ができるようになりました。恐れと感謝なしに礼拝することはできません。