詩篇 QT6 210607月【自信の根拠】詩篇 7篇 1~17
詩篇 7篇 1~177:1 私の神主よ私はあなたに身を避けます。どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。7:2 彼らが獅子のように私のたましいを引き裂き助け出す者もなくさらって行かないように。7:3 私の神主よもしも私がこのことをしたのならもしも私の手に不正があるのなら7:4 もしも私が親しい友に悪い仕打ちをしたのならまた私に敵対する者からゆえなく奪ったのなら7:5 敵が私のたましいに追い迫り追いつき私のいのちを地に踏みにじるようにし私の栄光をちりの中に埋もれさせてください。セラ7:6 主よ御怒りをもって立ち上がり私の敵の激しい怒りに対してご自身を高くし私のために目を覚ましてください。あなたはさばきを定められました。7:7 国民の群れをあなたの周りに集めその上の高いみくらにお帰りください。7:8 主は諸国の民にさばきを行われます。私の義と私にある誠実にしたがって主よ私をさばいてください。7:9 どうか悪しき者の悪が後を絶ちあなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は心の深みまで調べられます。7:10 私の盾は神にあり神は心の直ぐな人を救われます。7:11 神は正しい審判者日々憤る神。7:12 立ち返らない者には剣を研ぎ弓を張って狙いを定められます。7:13 その者に向かって死の武器を構えその矢を燃える火矢とされます。7:14 見よその者は不法を宿し害悪をはらみ偽りを産んでいます。7:15 彼は穴を掘ってそれを深くし自分が作った穴に落ち込みます。7:16 その害悪は自分の頭上に戻りその暴虐は自分の脳天に下ります。7:17 私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方主の御名をほめ歌います。 ダビデは神様に救いを訴えています。神様の救いでなければ、この危機から逃れる道はありません。それとともにダビデは自分が何か罪を犯したなら、救いを求めるのを止めると言います。神様の救いを訴えることができないほどの罪を、犯したことがないということを訴えているのです。ですから、神様に自分と敵の間に立って正義をもって判断してくださることを嘆願しています。 このダビデの自信の根拠は何でしょうか。ダビデが罪を犯した事実がないというわけではありません。カルヴァンが言った通り人間は堕落した存在であって、さらに全的に堕落した存在です。完全無欠な人というのはいません。罪は、犯した犯罪の出来事だけでなく、思いと心に絶えず存在するものです。しかし、本文の中でダビデは、罪について具体的に取り上げています。善意の人に対して裏切り、悪用し、又は不当に奪いとったことです。 私たちは、裁判所の判決で罪質が悪いという表現を聞きますが、それは法理に基づいたものではなく、普遍的な人間性による表現です。すべての人が罪を犯したとして、すべての罪が同じなのではありません。自ら「悪」を行って、自ら「弱」いと言うことは忌まわしいものです。悪さと弱さを悪意的に混ぜてはいけません。罪を犯したくて犯し、信仰の名によってそれを希釈してしまうのであれば、それは慈しみと赦しの恵みを悪用することです。 少し素直になれば、これを区別することは難しくありません。祈りに出てみればわかります。祈りのことばがが出なければ魂は詰まっているのです。口では祈りをしていますが、言葉が切れ切れで重なっているなら、それは自分で自分をだましているからです。神様への信仰よりも私の欲がより大きいときにある現象です。要するにどこに立っているのかということです。たとえ罪人であっても、私たちが神様の恵みをいただくことができるのは、恵みと救いを悪用せず、神様の側に立っているからです。 https://www.youtube.com/watch?v=D5m1UNsLQgo