詩篇 QT7 210608火【神様を見つけるところ】詩篇 8篇 1~9
詩篇 8篇 1~98:1 主よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。8:2 幼子たち乳飲み子たちの口を通してあなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため復讐する敵を鎮めるために。8:3 あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに8:4 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。8:5 あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。8:6 あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。8:7 羊も牛もすべてまた野の獣も8:8 空の鳥海の魚海路を通うものも。8:9 主よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。 8篇は神論と人間論の理解において重要な詩篇です。本やインターネットなどで8篇について調べてみると、たくさんの資料が出てきます。関心を持って読んでいただければと思います。ですから、ここでは、その観点については省略しダビデの霊性と感性について考えてみたいと思います。余計に難しい神学的な言語は魅力ないですが、ダビデの詩の言語はうらやましいものだからです。 最近星空を見たのはいつでしょうか?地面を見つめ、ため息を吐きながら生き、空を見上げても、天が崩れるような心配の中で生きます。しかし、何も持っていませんが、原野に寝転んで夜空を眺めながら、神様の栄光を見つける人もいます。ダビデは日が沈んだ原野から広大な空を眺めました。詩人が、草と風一本の日常を読み取り、それに詩で書くように、信仰は、いつもと同じ日常の中から神様を見つけ、それを告白するものです。 「神様、助けてください」という祈りはできますが、日常から見ること、聞くこと、感じることで神様を発見することができなければ、神様は存在しても、自分の生活の中では、ただすれ違ってしまう存在となります。気付いてない、もしくは表現しないなら、それは埋もれたままで、表に現れません。それは悔しいことです。人間は信じていることを表現したく、洞窟に絵を描き始めました。宗教と芸術は生まれが同じです。考えずに、悩まずに、振り返って黙想せずに、神様を発見し、表現することはできません。すべての人は、知的、理性的、合理的である前に、みなの芸術的です。 証しというのは、神様がされた特殊な出来事ではなく、日常の中で神様を見つけ、それを表わす人のものです。誰かの言葉や文章をまるで電子レンジで温めて食べるようなインスタント霊性では、神様の深さに至ることができません。ユーチューブなどに神様がおられるのではなく、すでに自分の中に神様はおられます。それを引き出す人が証しを所有するものになります。 確信しますが、考える信仰、表わす信仰共同体の実現ができれば -その方法については、まだ知りませんが -神様への献身は絶たなくなるものだと思います。信仰の文章を書きましょう。それは文章を書くことを仕事にする人だけがするものではありません。自分の言語で表現しなければ、自分の信仰の根拠を見つかることもできないからです。8篇が言う神様の御手で造られたすべてのものの中で、神様は、信仰を告白するダビデの口をさらに愛しておられたのではないでしょうか。