詩篇 QT11 210612土【拠り所が壊されたら】詩篇 11篇 1~7
詩篇 11篇 1~711:1 主に私は身を避ける。どうしてあなたがたは私のたましいに言うのか。「鳥のように自分の山に飛んで行け。11:2 それ見よ悪者どもが弓を張り弦に矢をつがえ暗がりで心の直ぐな人を射抜こうとしている。11:3 拠り所が壊されたら正しい者に何ができるだろうか。」11:4 主はその聖なる宮におられる。主はその王座が天にある。その目は見通しそのまぶたは人の子らを調べる。11:5 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは暴虐を好む者を憎む。11:6 主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄燃える風が彼らへの杯。11:7 主は正しく正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。 「拠り所が壊されたら正しい者に何ができるだろうか」という言葉の意味を考えるとき、何よりもサウルに追われた時代のことが思い浮かびます。それから自分の子アブサロムの反乱によって逃亡していた時代も思い出します。3節の「拠り所」は基礎や原則という意味です。確かに両方とも人生の基盤が崩れる経験でありました。 ところが、「拠り所が壊されたら正しい者に何ができるだろう」という嘆息を読むと、なぜかサウロとアブシャロムの時よりも、バテ・シェバの時が想起されます。ダビデが自ら基盤を壊し、崩れ落ちしてしまった出来事です。外部からの攻撃によって人生の基盤が脅かされることがありますが、守るべきことを守らなかったことによって失ってしまうこともあります。その方がさらに致命的であって根こそぎ揺らいでしまいます。名分も正当性もないからです。 敵がいなくても、すべての状況が敵になります。言い訳する余地もなく、助けを求めることもできません。人生の基盤が崩れ、居場所がなくなり、存在の価値も喪失してしまいます。箴言では、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く4:23」と言われました。「拠り所」を守るということは、心の原則、神様の御言葉の基礎を堅くし、揺れ動くことのない生き方を送ります。 そんなときにも避け所は神様です。ダビデは、自分にあった多くの試練を通して成長していったと思いますが、バテ・シェバのことを通りながらも信仰は成長しました。罪を犯し、懲らしめられていても再び、神様へ戻る道があることを知りました。ダビデの詩の義ということは、自分の道徳的な義ではありません。「義」は神様のもとに帰っていく人間のものです。倒れてしまった人間に対してこの世は非難しますが、その時の拠り所は神様だけです。御言葉によって回復するなら、私たちの「拠り所」もまた回復します。生活や拠り所が崩されても、天は崩れません。