出エジプト記 QT62 210629火【堕落した神観】出エジプト記 32章 15~24
出エジプト記 32章 15~2432:15 モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。32:16 その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。32:17 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」32:18 モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。32:20 それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。32:21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。 」32:22 アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。32:23 彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』32:24 それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」 シナイ山から下ってきたモーセはイスラエル民が金の子牛を作って崇拝していることを見て激怒し、神様からいただいた律法の板を投げ捨ててしまいます。神様の怒りが現われたのです。モーセは金の子牛という偶像を火で焼き、それを粉々に砕き、水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませました。存在もしない虚像は、目の前で消えてしまいます。 偶像というのは形として造られただけで本来人の中にいます。神様に満足できない人の貪欲が偶像になってきます。神様を信じると言いながら、その信仰の名乗って神様ではない、貪欲を求めます。自分のために神様を利用するのです。それを正当化するために、人間は神を変えます。様様を歪曲してしまいます。自分の欲を合理化するために神観を歪曲し、神様の言葉を変えます。そのようにして自分の偶像が造られます。 神様はこのようなイスラエルのに対して、7節で「堕落した」と言われました。「主はモーセに言われた。さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。7」堕落とは、神様を正しく知っていないことです。そして9節では、それを「うなじを固くする民」としました。神様に対して学ぼうとせずに、自分にとって便利な神を作ってしまうことです。 最大の問題は、問題を問題として認識しないことです。モーセは、イスラエルの霊的リーダーとして立てられたアロンを追及しますが、アロンは民に責任を転嫁します。世論が偶像を正当化することはできません。人のために神を作ってはいけません。唯一生きる道は、神様に対する正しい理解を追い求め、常に自分を否定し、神を知る知識に回帰することしかありません。