詩篇 QT18 210727火【主に避けるということ】詩篇 18章 20~31
詩篇 18章 1~1918:20 主は私の義にしたがって私に報い手のきよさにしたがって顧みてくださいました。18:21 私は主の道を守り私の神に対して悪を行いませんでした。18:22 主のすべてのさばきは私の前にあり主のおきてを私は遠ざけませんでした。18:23 私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。18:24 主は私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前のこの手のきよさにしたがって。18:25 あなたは恵み深い者には恵み深く全き者には全き方。18:26 清い者には清く曲がった者にはねじ曲げる方。18:27 まことにあなたは苦しむ民を救い高ぶる目を低くされます。18:28 まことにあなたは私のともしびをともされます。私の神主は私の闇を照らされます。18:29 あなたによって私は防塞を突き破り私の神によって城壁を跳び越えます。18:30 神その道は完全。主のことばは純粋。主はすべて主に身を避ける者の盾。18:31 主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。 神様は全知全能である、憐れみ深いという理解が間違って無秩序として誤解している場合があるようです。だから信仰をどのように実行するかについて無関心で、無秩序のまま放置し、結果は、何とか神様がしてくださるとの無責任に誤解している場合です。 意図的に罪を犯してから自分の都合によって、神様は赦す方であると言い、責任を負わない者です。社会的に大きいな犯罪を犯し、被害者がいるにもかかわらず、神様が自分を赦したと言い張ることをよく耳にします。それは神を知らず、実際に信じてもない人です。 神様に悔い改め、赦されたのかどうかは、責任を負うか負わないかを見ればすぐわかります。18章20節以降につながる今日の本文には、私たちで認識できる信仰の秩序について語っています。私たちの生き方、行なったこと通りに神様は報いてくださいます。神様は私たちに認識できないこと、移行できないことを求める方ではありません。 30節で、その秩序の結果が確認できます。「神その道は完全。主のことばは純粋。主はすべて主に身を避ける者の盾。30」神様は私たちの盾になってくださるということですが、その盾を持つ人は、神様に身を避ける人です。神様に避けるということは、体を避けることではなく、心を避けることでもありません。悪と不義と非良心から避けるのです。 誰が神様に避ける人ですか?「手もきよい人20であり、主の道を守る人21であり、神に対して悪を行わない人21であり、おきてを捨てない人22であり、咎から身を守る人23であり、恵み深い人25であり、清い人26であり、高ぶらない人27であり、主に頼る人29」です。彼らに主に避ける人であって、神様は彼らに盾になってくださいます。