士師記 QT31 210915水【ギブアで起こったこと】士師記 19章 16~30
士師記 19章 16~3019:16 そこへ、夕暮れになって畑仕事から帰る一人の老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに寄留していた。この土地の人々はベニヤミン族であった。19:17 目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は「どちらへ行かれますか。どこから来られたのですか」と尋ねた。19:18 その人は彼に言った。「私たちはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けているのです。私はその奥地の者で、ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の家へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる人がいません。19:19 ろばのためには、藁も飼葉もあり、また、私とこの女、しもべどもと一緒にいる若い者のためには、パンも酒もあります。足りない物は何もありません。」19:20 老人は言った。「安心なさい。足りない物はすべて私に任せなさい。ただ、広場で夜を過ごしてはいけません。」19:21 こうして老人は彼を自分の家に連れて行き、ろばに飼葉をやった。彼らは足を洗って、食べて飲んだ。19:22 彼らが楽しんでいると、なんと、町の男たちで、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで戸をたたき続け、家の主人である老人に言った。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」19:23 そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。19:24 ここに処女の私の娘と、あの人の側女がいる。今、二人を連れ出すから、二人を辱めて、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしあの人には、そのような恥ずべきことをしないでくれ。」19:25 しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。19:26 夜明け前に、その女は自分の主人がいるその人の家の戸口に来て、明るくなるまで倒れていた。19:27 彼女の主人は、朝起きて家の戸を開け、出発しようとして外に出た。見ると、そこに自分の側女である女が、手を敷居にかけて家の入り口で倒れていた。19:28 彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」と言ったが、何の返事もなかった。そこで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分のところへ向かって行った。19:29 彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。19:30 それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」と言った。 レビ人一行は、一人の老人に助けられ、家に入りますが、町の不良な者たちに脅かされます。町の不良な者たちはレビ人との同性間の性的間系を求めます。家主はお客さんを保護しようと思い、引き止めながら自分の娘とレビ人の側女を与える条件で男のレビ人には触れないように願います。この出来事の中でお客さんを保護しようという老人の態度が唯一に人間的なものですが、自分の娘を性暴行に出してあげるという発想はどうも猟奇的です。このもめごとを見たレビ人が自分の側女を強制的に引き出し、不良な者たちに投げます。側女は一晩中集団性暴行されます。 女性は苦痛の中で助けを求め、必死に敷居まで来ましたが、死にました。うつ伏せっている彼女の死体の上にレビ人をもてなした彼女の父の顔が重ねような気がします。レビ人の感情については何の描写もありません。レビ人は夜中寝だようで、朝起きてから彼女が死んだことがわかりました。レビ人は彼女の遺体を十二の部分に切り分け、イスラエルの各部族に送り、ベニヤミンの蛮行を告発します。登場人物たちが繰り広げる話は、ホラー物の映画で出てきそうな話です。 申命記で神様がイスラエルとの約束をしたときに、それは具体的なものであり、多くのことを制限するように見えました。それに対してイスラエルが「はい」と答えたのは、律法を与える神様の意図を理解したからなく、カナンという地に入る期待感のためでした。約束したならば当然、その約束を記録し、記憶し、学習し、実践すべきです。その第一の目的は、神様との約束であるからであり、第二は、それこそが、自分たちを守ってくれる原理だからです。 イスラエルは神様の御言葉を捨て、破壊すべき文化に染められ、怪物になってしまいました。社会倫理と家庭倫理、性倫理について、神様は、すでに原則を与えてくださいました。それを守ることが安全であり、霊的であり、人間的なことです。神様は人間を制限するために律法を与えられたのではなく、人間らしさを維持するために律法を与えられたのです。神様を失った人々において罪の最大値というのはありません。この事件は、さらに人間集団を絶滅をもたらす戦争につながります。