ヨブ記 QT5 211006水【休む間もない苦しみ】ヨブ記 3章 11~26
ヨブ記 3章 11~263:11 なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。3:12 なにゆえ、両膝が私を受けとめたのか。乳房があって、私がそれを吸ったのか。3:13 今ごろ私は安らかに横になり、眠って安らいでいただろうに。3:14 自分たちのためにあの廃墟を築いた王たち、地の指導者たちと一緒に。3:15 黄金を持ち、自分の家を銀で満たした首長たちと一緒に。3:16 なぜ私は、ひそかに堕ろされた死産の子、光を見なかった嬰児のようにならなかったのか。3:17 かしこでは、悪しき者は荒れ狂うのをやめ、かしこでは、力の萎えた者は憩い、3:18 捕らわれ人たちもみな、ともに安らかで、激しく追い立てる者の声も聞こえない。3:19 かしこでは、下の者も上の者も同じで、奴隷も主人から解き放たれている。3:20 なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。3:21 彼らは死を待つが、死はやって来ない。隠された宝にまさって死を探し求めても。3:22 彼らは墓を見出したときに、歓声をあげて喜び楽しむ。3:23 自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人になぜ光が与えられるのか。3:24 まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。3:25 私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったからだ。3:26 安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。 神様が許された苦難は、ヨブだけを試すための特別な出来事ではないと思います。神様はヨブという人物に苦難を与えたのではなく、すべての人生に虚無と苦労の時間を過ごさせました。肉体を持っている人生ならば誰でもヨブと同じような悩みと質問を持たなければなりません。それがなければ、人間は真の安息を手に入れることができないからです。ヨブが自分の命と存在を否定しながら、人生の懐疑を歌っているのは、その苦痛から離れ、真の安息に入りたいからです。安息を求めない人は、神様を見つけることはできず、苦しみの人生の旅路で人生が何かと悩まない人は神様に出会うことができません。 皆が安息を求めますが、体を休ませることが安息であると誤解します。求めるべき安息はそのようなものではありません。病院の患者は口を揃って「お家に帰りたい」と言います。弱った肉体の切実な願いの言葉です。病院にいる人間は皆不安です。だから、自分が住んでいた所、家族と一緒に食べていたところに帰りたいのです。安息を記憶しているからです。「安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。26」そういう意味で、人は皆ヨブのうめき声を持たなければなりません。 ヨブ記の多くは詩の形になっています。人間に対する質問を持っているもの、すなわち文学と哲学、芸術、そして神学までも、その原初的テーマは、「人生は何か」という質問です。ところが、最近では、このようなものを勉強すると、就職できないそうです。人生を悩むと人生は剥奪されます。ただお金を悩むことが大切になりました。今すぐ現金化できる技術と投資だけが社会的に認められます。だから人間群像はますます安息が何なのか知らず、安息を失っていきます。安息の必要性さえ知りません。聖書には、地獄の描写がほとんどありません。もしかして、それは現実をよく臨んでみればそこから地獄を見えてくるからではないでしょうか? ヘブル人への手紙には神様の御言葉に従わなければ安息に入ることができないと語っています。ヘブル人への手紙の著者は、出エジプトしてから、カナンに入らず、荒野で死んでしまったイスラエルの民を安息に入らなかった事例として紹介しています。確かに悔しいケースです。厳しい苦労をしましたが、安息に入らずに死にました。ヨブが求める安息、否、神様がヨブに求めさせる安息というのは、苦難を受ける前の日常に復帰することではなく、人生と神様を再発見する上に与えられる真の安息です。