ヨブ記 QT15 211018火【血まみれ】ヨブ記 9章 11~24
ヨブ記 9章 11~249:11 神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。9:12 ああ、神が奪い取ろうとされるとき、だれがそれを引き止められるだろうか。だれが神に向かって、「何をするのか」と言えるだろうか。9:13 神は御怒りを翻されない。ラハブの仲間も、神のみもとに身をかがめる。9:14 まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。9:15 たとえ私が正しくても、答えることはできない。私をさばく方に対して、あわれみを乞うだけだ。9:16 私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられるとは、信じられない。9:17 神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる。9:19 もし、力のことなら、見よ、神は強い。もし、さばきのことなら、だれが私を呼び出すのか。9:20 たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。9:21 私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。9:23 突然、にわか水が出て人を死なせると、神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。9:24 地は悪しき者の手に委ねられ、神は地のさばき人らの顔をおおわれる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。 ハイデガーは、人間が「自分の意志に問わず世に投げつけられた存在」であると言いました。確かにそうではないでしょうか。投げ出され、泣きながら生まれます。それを「被投性」といいました。 世界に投げつけたという意味で、「被投性」の存在です。 「私はなぜこの世に存在するのか」を考えるなら、自分の意志とは関係なく放り出されたことを認めざる得ません。それを認めると、今度は死ななければならないということも認めざる得ません。私たちは、その間を生きる存在です。ハイデガーは、「人間が不安と死を自覚するときにはじめて、真理についての質問をはじめる」と言っています。 韓国語では、ハイデガーの「被投性」と「血だらけ」の発音が同じです。言葉遊びのようですが、エゼキエルに、「血まみれ」の内容があります。「…あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。16:6」希望もないまま捨てられた血まみれの女の子にそれでも「生きよ」と言われます。神様がその捨てられた血まみれをよみがえらせ、洗らわせ、世の中に立てられるのです。ですから神様の命令は、ただ「生きよ」です。 ヨブは答えについて知りません。時には揺れ、現実を恨みますが、それでも、ヨブは質問を持っています。神様について完全に知ることはできませんが、神様をあきらめることはできません。神様について完全に知っていると言っている人は、神様を知らない人です。私たちも部分しか知りませんが、だからといって神様を知ることをあきらめることはありません。 ヨブは、苦しみのあまり死を求めていますが、血まみれになっても生きなければなりません。ヨブを含め、絶望の中にいるすべての「血まみれ」または「被投」の存在に、「血に染まっても生きよ」というエゼキエルの言葉をもって応援します。生きることをあきらめず、質問することをあきらめなければ、神様に出会うことになります。