ヨブ記 QT25 211029金【もう一度生きたい】ヨブ記 14章 13~22
ヨブ記 14章 13~2214:13 ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてくださればよいのに。14:14 人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。14:15 あなたがお呼びになれば、お答えします。あなたは御手のわざを慕っておられるでしょう。14:16 今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。14:17 私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。14:18 しかし、山は倒れて崩れ去り岩もその場所から移されます。14:19 水は石を打ち砕き、あなたは小石を押し流して地のちりとされます。そのように、人の望みを絶ち滅ぼされます。14:20 あなたがいつも人に打ち勝つので、人は去って行きます。あなたは彼の顔かたちを変えて、彼を追いやられます。14:21 自分の子どもたちが人に尊ばれても、彼がそれを知ることはなく、彼らが人に卑しめられても、彼には見分けがつきません。14:22 ただ彼の肉が彼のために痛みを覚え、そのたましいが彼のために嘆くだけです。 20節以下、「あなたがいつも人に打ち勝つので、人は去って行きます。あなたは彼の顔かたちを変えて、彼を追いやられます。自分の子どもたちが人に尊ばれても、彼がそれを知ることはなく、彼らが人に卑しめられても、彼には見分けがつきません。ただ彼の肉が彼のために痛みを覚え、そのたましいが彼のために嘆くだけです。」ここでヨブと友人たちの第1次弁論は終わります。死という混乱と苦しみの前で、自分の肉体と魂を修めることもできない人間のことを言います。 「山は倒れて崩れ去り岩もその場所から移されます。水は石を打ち砕き、あなたは小石を押し流して地のちりとされます。そのように、人の望みを絶ち滅ぼされます。」山と石は本来動かないものなのですが、それが水に磨かれて洗い流されたというのは、永遠に続くと思い込む人間のすべてが神様によって消えさるということです。 そのような絶望と虚無の中でヨブは14節で「人は死ぬと、また生きるでしょうか」と尋ねます。「人は一度死んだらまた生きられることはないです」という嘆息の質問かもしれませんが、これは溺れる者ものがわらをもつかむように、死の絶望の前でもう一度生きたいという願いの言葉でもあります。だからヘブライ語をギリシャ語に移した70人訳(LXX)では、14節を「人が死ぬと彼は再び生きる」と翻訳しました。ヨブの復活信仰と捉えることができます。ヨブは「私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで」と言いました。その「待ち」とはすなわち復活です。 ティム・ケラーは『死について』でピューリタンの言葉を引用して「一度生まれれば二度死に、二度生まれれば一度死ぬ」と言いました。人が「二度生まれば一度死ぬ」ということは、生まれ変わったクリスチャンの肉体は一度死ぬものの、霊は決して死なないということです。人が「一度生まれれば二度死ぬ」というのは、生まれ変わらない人は肉体が死んだ後に、再び永遠の死を迎えるということです。生きている間に、二番目の誕生をしなければなりません。それがイエス・キリストの中で生まれ変わることです。ヨブがこれを知っていたら喜びのあまり踊ったと思います。 死の前に置かれたヨブの態度は正直です。虚しくて怖いものです。しかし、ヨブは希望を失いません。復活を願うのです。ヨブにとってはまだ慎重な復活ですが、私たちにとってはの復活は確固たる信仰です。クリスチャンは死を超えて何があるのかを確かに知っています。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。Ⅰコリント15:55」復活がある。だから死は死にました。だれでもキリストを信じれば、キリストに連なって「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」なのです。永遠の死から救われ、永遠の命を味わうことになります。