ヨブ記 QT27 211101月【観点の喚起】ヨブ記 16章 1~17
ヨブ記 16章 1~1716:1 ヨブは答えた。16:2 そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。16:3 むなしいことばには終わりがあるのか。あなたは何に挑発されて答え続けるのか。16:4 私も、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、あなたがたに向かって私は多くのことばを連ね、あなたがたに向かって頭を振ったことだろう。16:5 この口であなたがたを強くし、唇による慰めを惜しまなかったことだろう。16:6 たとえ私が語っても、私の痛みは抑えられません。たとえ私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るでしょう。16:7 まことに神は今、私を疲れ果てさせました。あなたは、私の仲間をみな荒れ果てさせました。16:8 あなたは私をつかみました。自分の痩せ衰えた姿が証人となり、私に向かって立ち上がり、面と向かって不利な証言をします。16:9 神は激怒して私を攻めたて、私に向かって歯をむき出される。私の敵は私に向かって目を鋭くする。16:10 彼らは私に向かって大きく口を開け、そしりをもって私の頬を打ち、こぞって私を攻める。16:11 神は私を不遜な者に引き渡し、悪しき者の手に投げ込まれる。16:12 私は平穏でいたのに、神は私を引き回された。首筋をつかんで私を粉々にし、そうして、ご自分の標的とされた。16:13 その射手たちは私を包囲した。神は私の腎臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流された。16:14 神は私を打ち、打ち破って、勇士のように私に襲いかかられる。16:15 私は粗布を肌に縫い付け、自分の角をちりの中に突き刺した。16:16 私の顔は泣きはらして赤くなり、まぶたには死の陰がある。16:17 私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよいのだが。 しゃべりたいことの多い友人3人が1回ずつ議論し、一回りしてエリファスズが再び議論した後のヨブの答えです。ヨブはもう友人3人の立場をよく知っています。彼らが確信的に言おうとしていることが何かについて知っており、それに対して変化の余地がないことも知っています。このようなことで人間をについて知るということは悲しいです。成熟した人は人間をあきらめるしかありません。「人はそういうもんだ」と思うべきであって、確信している人間と言葉をもって戦っても解決はないからです。 人間の絶望的な無知に出会うということは、真の希望を抱く機会になります。誰かを信じることも、頼ることもできないことに気づくと、ヨブの苦難に神様が介入されていることに気が付きます。ヨブはわけの分からない苦難の中で神様を学んでいますが、友人という人間についても多くことを学んでいるようです。 人々は自分のことでなければ、観察者の立場から考え、その立場を変えて考えることはしません。他人の苦しみを見ている人の視線は一方的です。一度自分の立場を決めたら、なかなかそれを変えることはせず、頑固なものになります。友人は、ヨブのために、ヨブが悔い改めなければならないと言っていますが、実際には自信に陥った論理でヨブをさらに苦しめているだけです。ヨブは、彼らに対して慰めに来たが、災いを加えていると言います。 絵を学んだことがありましたが、絵が気に入った日は、数時間も集中して描きました。ところで、そのように描いた絵は十重八九のどこかが間違って歪みます。遠くに離れて自分の絵を見なければなりません。構図を見、全体のバランスを確認します。部分ではなく全体を見るのです。人々のアドバイスを聞くことも大事です。客観的な視点を確保し、評価者の視線から見る力が必要です。 自分が描いた絵に自分がすでにだまされてしまったいわばピグマリオンのような人は、間違っているところを教えても直しません。下手より恐いのは、上手いと勘違っている思いです。ところが、トイレに行ってきて絵を見ると変に見えます。外に出てきたからみると、さらに可笑しいです。視点の換気が行われたからです。自分の視点と立場が間違っている可能性があることを認めない人は、自分の作品が世に出た瞬間に恥じを覚えるようになります。これを学んだヨブは、言葉の通じない友達と言葉をもって戦うことではなく、神様の前に立っている自分の視点を疑い、それを換気することです。