ヨブ記 QT28 211102火【慰められない孤独】ヨブ記 16章 18~17章 5
ヨブ記 16章 18~17章 516:18 地よ、私の血をおおうな。私の叫びに休み場がないようにせよ。16:19 今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。16:20 私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。16:21 その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。16:22 数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくのですから。17:1 私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです。17:2 実に、嘲る者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。17:3 どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。17:4 あなたはあの者たちの心を賢明さから引き離されました。ですから、あなたが彼らを高く上げられることはありません。17:5 分け前を得るために友の告げ口をする者。その子らの目は衰え果てる。 「地よ、私の血をおおうな。」この言葉は、身にしみるほどの悔しさをヨブが訴えていることを表しています。もちろんヨブは疲れ果ていて、彼の言葉にも信仰的な混乱があります。ヨブは神様に対して恨みませんでしたが、しかし迂回的に状況を恨みました。誰一人もヨブを慰める人がいなく、孤独はさらにヨブを苦しませています。独りという孤独は恐ろしい痛みです。人々は言います。頼るところがないので、神様に頼ればいいと。もちろんそうなのですが、これはもっともヨブの友達の口から出てくるような言葉です。孤独が人の不在のために起こるものであれば、人が満たさなければならない部分は依然として残っているはずです。 天国には信仰を必要としません。信仰は体を持って地上に生きる間に必要なものです。いかに大きい信仰を持っているとしても、人と人の関係抜きに考えることはできません。例えば孤独が神様に頼らせる機能があるとしても、その孤独に放置された人が良い役割を果たせる保証はどこにもありません。ヨブが言ったように、自分が直面する苦難よりも、友人たちの断罪の方が、よっぽど大きい災いになってヨブを押しつぶしています。ヨブの訴えは、友達の冷たい言葉による悲しみのゆえです。 ヨブと友達の会話を見ながら、なぜ消耗的な話を続けているのかとも思われます。ヨブは友達を帰らせて静かに断食の祈りでもすればいい思うのですが。しかし、ヨブは自分を指摘し責めるばかりの友人たちであっても、自分ね隣にいてほしかったのかもしれません。会話する人すらいない孤独は怖い苦しみです。苦しみの中で投げられた人間が神様を求めている話、それがヨブ記であるならば、苦しみの中で生きなければならない人間同士の関係については、さらに大きな重さを持って語っていると思います。 人生が崩れ、弱くなり、死に向かって行くのは、ヨブだけの特別な話ではありません。誰もが下り坂を歩きます。ところが、人々は簡単に言います。一生懸命生きていないからだと、老いてからだと、信仰が足りないからだと、罪を犯したからだと、、。東京には年に千人の高齢者が家で一人で孤独死します。話し相手一人もいない、孤独に生きて、飢えて死にます。 なぜ老いたのか、なぜ孤独だったのか、なぜ貧しかったのかを責め立てて何の益があるでしょうか?厳しい孤独の中で死んでいくヨブは私たちの周りにたくさんいます。ヨブに神様を望む信仰があるからといって、苦痛が消えたわけではなかったことと同じように、信仰があるからといって、人と人との関係の中で人に慰められる必要がなくなるわけではありません。私たちが出会う多くのヨブたちに対して、問い詰める代わりに、慰めることができればと願います。