ヨブ記 QT31 211106土【皮が剝ぎ取られた後に】ヨブ記 19章 21~29

ヨブ記 19章 21~2919:21 あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。19:22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。19:23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。19:24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。19:26 私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。19:27 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。19:28 あなたがたが、「彼をどのように追いつめようか。事の原因は彼にあるのだから」と言うなら、19:29 あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる。   友達に憐れみを訴えたヨブはここから神様に向かいます。神様を意識しているのは、友人たちではなく、ヨブです。友人の神様は自分の論理の中で作られた加工の存在、つまり死んだ神ですが、ヨブの神様は矛盾と苦しみの中で問われている存在、すなわち生きている神です。自分で答えを決めておくと神様は現れませんが、自分が質問を続けれるならば神様は答えてくださるのです。   ヨブは「私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」と言いました。真実が受け入れられず、屈折し、歪んでいる世界、罪に陥った存在が互いに告発し、断罪する世界の外、つまり、肉体の死を越えて向こう側におられる神様に戻り、すべてが明白に明らかになったところに立つ、ということです。   それは自暴自棄でも、自虐でもなく希望です。人生というものと人というものが、いかに弱いのかを悟っているがゆえに、与えられる希望です。その時は、今のような不完全さではありません。真実は真実であり、信じたのはその信仰に現れます。   その日にさばかれるのは友達です。「あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる。」恐れなければならないのは、幸福を失った悔しさではなく、神様のところに立って裁きを行った友人です。神様を信じるということは、自分の物差しで人を計るのではなく、神様の心で人を哀れむ心ではないでしょうか。

욥기 QT31 211106토【육체 밖에서 하나님을 보리라】욥기 19장 21~29

욥기 19장 21~2919:21 나의 친구야 너희는 나를 불쌍히 여기라 나를 불쌍히 여기라 하나님의 손이 나를 치셨구나19:22 너희가 어찌하여 하나님처럼 나를 핍박하느냐 내 살을 먹고도 부족하냐19:23 나의 말이 곧 기록되었으면, 책에 씌어졌으면, 19:24 철필과 연으로 영영히 돌에 새겨졌으면 좋겠노라19:25 내가 알기에는 나의 구속자가 살아 계시니 후일에 그가 땅 위에 서실 것이라19:26 나의 이 가죽, 이것이 썩은…