ヨブ記 QT40 211116水【目覚めたらいない】ヨブ記 27章 13~23
ヨブ記 27章 13~2327:13 悪しき人間が神から受ける分、横暴な者が全能者から受け継ぐものは次のとおりだ。27:14 たとえ子どもが増えても、剣にかかり、子孫が食べ物に満ち足りることはない。27:15 その生き残りも死んで葬られ、やもめたちは泣きもしない。27:16 彼が金をちりのように積み上げ、衣装を土のように蓄えても、27:17 蓄えたものは、正しい者がこれを着て、金は、潔白な者が分ける。27:18 彼はシミの巣のような家を建てる。番人が作る仮小屋のような家を。27:19 富む者として床につくが、もうそれきりだ。目を開けると、もう何もない。27:20 突然の恐怖が洪水のように襲い、夜にはつむじ風が彼を運び去る。27:21 東風が彼を運ぶと、彼はいなくなり、その居場所から彼を吹き払う。27:22 それは容赦なく襲いかかり、彼はその手から必死に逃れようとする。27:23 それは彼に向かって手をたたき、彼を嘲って、その居場所から追い出す。 悪者も栄えることがあります。ヨブは次のようにその逆説を語ります。悪しき人も繁栄します(14)が、その繁栄のために剣にかかり(14)、それを食べることができず(14)、死んで葬られ(15)、悪しき人は栄えますが(16)、それを楽しみません。悪しき人も富を積むことがあります。 しかし、それはすぐに他人のもの、義人のものとなり(17)、自分のものとはなりません。たとえ、金持ちが死んでも行く所がありません(18)。 地上にある良いもので神様の恵みの程度を測定することはできません。なくても豊かな人がいれば、所有していても不幸な人がいます。使っても減らない人がいれば、たくさんあっても使えない人がいます。条件が悪くても幸せな人がいれば、すべてが揃っていても不安な人がいます。箴言は、「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。28:1」と言いました。不安と恐怖の時代を生きる人々は、なぜ不安なのか、また自分の敵が何であるかを知らないまま、不安に包まれています。 ヨブは彼らが持っていたものが「目を開けると、もう何もない。19」と言います。90年代出版して人気を浴びたキム・ハンギルの『目覚めたらいない』というエッセイ集があります。アメリカの生活を勝ち抜いて成功を遂げますが、その過程を幸せに生きることができず、結局夫婦は別れることになります。妻はアメリカで、キリスト教の信仰を持ち、後に牧師になりますが、癌にかかり、今はいなくなっています。キム・ハンギルの別れた妻は、実は先日引用したイ・オリョン先生の娘です。 彼らの話を悪い例とするつもりらありません。彼自身告白しているように、成功のために生きるものの、「目覚めるといない」という告白に共感するのです。ヨブが言っている悪者も「凶悪な悪党」ではなく「愚かな群像」なのかもしれません。人生は、目を閉じたまま前へ走り続けるようなものですが、ある日、目を開けてみると大切なものが残っていないことがあります。目覚めたら何もいない、気づいたら何もないことに気がつくことがあります。エッセイは、ハッピーエンディングではありませんが、困難な日に互いを配慮した日常の話は幸せな物語として響いてきます。つまり幸せは確かにありましたが、それに気付かず生きてきた、ということです。「義人は今日を味わって生きる人」であり、「悪人は明日の不安に生きる人」ではないでしょうか。