ヨブ記 QT45 211123火【裏切りの正体】ヨブ記 30章 1~15
ヨブ記 30章 1~1530:1 しかし今は、私より年下の者たちが私をあざ笑う。あの者たちの父は、かつて私が蔑んで羊の群れの番犬と一緒にいさせた人たちだ。30:2 あの者たちの手の力も何の役に立つだろうか。彼らの気力は失せている。30:3 彼らは欠乏と飢饉で干上がり、乾いた土にさえかじりつく。荒れ果てた廃墟の暗闇で。30:4 彼らは陸ひじきや藪の葉を摘み、えにしだの根を食物とする。30:5 世間からは追い出され、人々は盗人に叫ぶように、彼らに大声で叫ぶ。30:6 谷の斜面や、土の穴、岩の穴に住み、30:7 藪の中でいななき、いらくさの下に群がる。30:8 彼らは愚か者の子たち、名もない者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ。30:9 それなのに、今や私は彼らの嘲りの的となり、その笑いぐさとなっている。30:10 彼らは私を忌み嫌って遠く離れ、私の顔に向かって情け容赦なく唾を吐きかける。30:11 神が私の弓弦を解いて私を苦しめ、彼らが自分の綱を私の前で投げ捨てたのだ。30:12 この生意気な者たちは私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に対して滅びの道を築いた。30:13 彼らは私の通り道を打ち壊し、私の滅びを進めている。彼らに助ける者はいらない。30:14 彼らは、広い破れ口から入るように、瓦礫となったところになだれ込む。30:15 突然の恐怖が私に降りかかり、私の威厳を、あの風のように吹き払う。私の平穏は、雨雲のように過ぎ去った。 シェイクスピアの『アテネのタイモン』(Timon of Athens)で、主人公のアテネの金持ちタイモンは、莫大で無条件な善行を実践し、アテネ市民に尊敬されていた人です。慈善の規模が大きくなりにつれ、タイモンは破産に至ります。しかし、タイモンは心配しませんでした。自らの共同体が、自分を覚え、助けてくれる、自分が実践した慈悲は、やがて自分にも戻ってくる、と思っていたからです。彼は自分がしてきたことを悔やみませんでした。 しかし、タイモンの期待とは裏腹に、世間は彼を助けようとしませんでした。タイモンに助けられた人や友人たちは、タイモンを蔑み、裏切ります。裏切られたタイモンはアテネを呪い、町から離れます。タイモンは裏切られた気持ちに勝てず、人間を嫌悪しながら死んでいきます。シェイクスピアの人間嫌悪を最大化した作品であると言われていますが、人間をあえて嫌悪したのではなく、かえって人間を直視したのではないでしょうか?タイモンが尊敬されたこと、そして没落と裏切り、そのすべての背景には、タイモンの人格ではなく、彼の経済的能力がありました。 タイモンからお金がなくなると、タイモンという実体も明らかになり、彼に従った人々の実体も明らかになります。タイモンに従った人々、彼に挨拶した人々、彼を尊敬した人々は、経済的能力を失ったタイマンを捨てます。人々の関心がお金にあったため、お金のない人は人々の関心を受けられず、やがて捨てられるのです。拝金主義が純粋な人間の善意を裏切らせ、裏切られた人間は人間を嫌悪します。 29節で読んだヨブは、タイモンのように有名で富んでおり、世の人々の尊敬を受けていました。しかし、彼が没落すると、人々はヨブを侮辱し、捨てました。裏切りが与える傷は深くて大きいものです。失敗には涙を流しますが、裏切りには血の涙が流れます。ただ、ヨブとタイモンの違うところは、タイモンは人間を嫌悪して呪いながら死んでいきましたが、ヨブは自分が受けた蔑みと裏切りが神様の摂理であったと考えた点です。「神が私の弓弦を解いて私を苦しめ、彼らが自分の綱を私の前で投げ捨てたのだ。11」 慈善を施す自分と、自分を賞賛する声を、私たちは警戒すべきでしょう。そして裏切りがあっても驚く必要はありません。聖書は「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。 マタイ 6:3」と教えています。 ヨブは今、痛みをもって人間を学んでいるのです。