Ⅱテモテ QT2 211202木【死亡の死】Ⅱテモテ 1章 8~18
Ⅱテモテ 1章 8~181:8 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、1:10 今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。1:11 この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。1:12 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。1:14 自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。1:15 あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れて行きました。その中にはフィゲロとヘルモゲネがいます。1:16 オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけ、私が鎖につながれていることを恥と思わず、1:17 ローマに着いたとき、熱心に私を捜して見つけ出してくれました。1:18 かの日には主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように。エペソで彼がどれほど多くの奉仕をしてくれたかは、あなた自身が一番よく知っています。 パウロはテモテに「主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません」と言います。15節を見ると、多くの人がパウロを離れたようです。その理由は迫害に対する恐れでしたが、パウロはその恐れの原因を遡ってと分析しましたが、逃げることは、福音を恥ずかしく思うからです。主流に入らず、流行に従わなければ不安になる人は、虐待されていた十字架の信仰を恥と思いました。逆に、十字架が主流になれば、十字架を信じることは恥じになりません。それはすでに人に頼った信仰であります。迫害したローマがキリスト教を国教として公認し、キリスト教が社会の主流になったとき、福音を恥ずかしがる者は消えましたが、その時から血を流す十字架の福音は下がり路を下ります。 人々は命を捨てながら福音を信じることを愚かだと思いました。誰も行かない初めての道を行くのを恥と思いました。他人と違うと恥ずかしくなります。他人が持っているものを持つこと、他人よりも良いものを持つことが目的である人にとってはそうです。しかし、人間は最終的に死亡しますが、福音は最終的に死を打ち勝ちます。死に脅かされても、福音を恥じと思わないのは、福音がすでに死に打ち勝ったからです。「今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。10」死亡は死に、命を生かしたのが福音です。十字架の道は、大勢が行く道ではなく、自分一人で歩く道です。 堂々に信仰と告白する人が福音を持っている人です。 自分が持っている恐れと恥は十字架の前で燃やすことができますが、十字架が恥ずかしいと思う人は罪を燃やす方法がありません。