ルカの福音書 QT7 220115土【みことばを聞いても】ルカ 4章 16~30
ルカ 4章 16~304:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、4:19 主の恵みの年を告げるために。」4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」4:22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。4:23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」4:24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。4:25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、4:26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。4:27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」4:28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。4:30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。 イエス様は、故郷のナザレに帰られ,安息日に会堂で聖書を読まれました。安息日の会堂では、定められた本文が読みますが、イエス様に与えられたみ言葉は、イザヤ61章の18節19節でした。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。18,19」 イエス様は、朗読の後にその本文を持って説教されましたが,22節に「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて」とあります。説教の内容については記されていませんが、確かに彼らはイエス様の説教を聞ってその解釈の知恵に驚きました。イエス様は説教の後、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」と言われましたが、これはイザヤが預言したメシヤがご自身であることを宣言したものであります。それ以来、人々はイエス様の説教の恵みを忘れて彼が明らかに大工のヨセフの息子であることを思い出し、敵対的に変わります。 ここにイエス様はエリヤがシドンのやもめに会って彼女を救い、エリシャがアラムのナアマン将軍を癒したことを言われます。これは二人ともユダヤ人ではない異邦人だったからです。ユダヤという自尊心は信仰を妨げているからです。信仰という誇りが、信じないようにしているパラドックスです。ナザレ人はみことばをみことば通りに受け取らず、大工の息子という先入観と固定観念の中でイエス様を受け入れることをしませんでした。 「異邦人への恵み」という言葉でもう一度刺激されたナザレ人はイエス様を殺そうとしました。みことばを聞くときは、自分を空にしなければなりません。自分の考えを満たし、神様のみことばを聞いても聞こえません。アーメンということばは、自分の考えに神様が同意してくださるときに使う言葉ではなく、神様のみことばに私の考えを合わせるという意志の現われです。私たちが持つべき信仰の誇りは、謙遜で神様の恵みが聞こえる誇りではないでしょうか。