ルカの福音書 QT12 22021金【山上八幸と平地四幸】ルカ 6章 12~26
ルカ 6章 12~266:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。6:13 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。6:14 すなわち、ペテロという名を与えられたシモンとその兄弟アンデレ、そしてヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、6:15 マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員と呼ばれていたシモン、6:16 ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダで、このユダが裏切る者となった。6:17 それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。6:18 彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。6:19 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。6:23 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。6:24 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。6:25 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。6:26 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。 ルカは、イエス様の言行を直接見たり、聞いたりしてその場で記録したものではなく、資料を通して編集したものです。四つの福音書の中で、マルコの福音書が最初に書かれ、マタイの福音書とルカの福音書はマルコの福音書を参考にして書かれ、さらにルカの福音書は別のイエス様の記録であるいわゆる「Q文書」を参照して編集しました。ということで福音書の中でも同じ時間、同じ出来事としても、少しずつ違いがあったり、添削があるのです。マタイにはマタイの読者がおり、ルカにはルカの読者がいたからです。著者は彼らの認識の範囲の内で編集したと思います。その意図まで読み取ることができれば,福音書を読む楽しみはさらなるものです。 ルカの福音書 6章を読んでいると、半分の「八つの幸い」出てきます。ルカは,マタイの福音書 5章に出てくる山上の説教の「八つの幸い」の一部だけを紹介しているからです。面白いのは、ルカはそれを山ではなく平地だと紹介します。今日は、マタイの「山上の八つの幸い」と、ルカの「平地の四つの幸い」を比較してみたいと思います。順番にすると、マタイの八つの幸いの第一、第二、第四、第八の幸いが、ルカの福音書に紹介されています。 「6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。(マタイの第1の幸い、マタイの福音書5:3、心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです)6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。(マタイの第二の幸い、マタイの福音書第5:6、義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです)今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。(マタイの第四の幸い、マタイの福音書第5:4、悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです)6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。(マタイの第八の幸い、マタイの福音書第5:10、義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです)」 それから、ルカが言及していない部分ですが、マタイの八つの幸いの中で三、五、六、七の幸いに当たります。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです(マタイ5:7)」「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです(マタイ5:8)」「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」 ルカは、確かに八つの幸いの記録を閲覧したと思います。しかし、八つの幸いの全部を記録したことではありません。その理由については、つながる文脈を通して考えることができます。「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。6:24‐26」 八つの幸いの主語は、「貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義を求める者、憐れむ者、清潔な者、平和の者、迫害される者」ですが、ルカは、その中で「貧しい者、悲しむ者、義を求める者、迫害される者」だけを紹介しました。これはつまり「弱者」です。これらの「弱者」は確かにルカの福音書に含まれています。彼らには神様の慰めという希望があるからです。しかし、八つの幸いを2つに分けるとしたら、片方には持っている人たちへの教えもいます。彼らに求められているのは、柔和、憐れみ、清潔、平和です。ところがルカの平地の四つの幸いにはありません。 ルカの平地の四つの幸いは、祝福を受けるための教えではなく、災いを免れるための教えだからです。イエス様は当時の既得権者に対する怒りでこれらを言われました。ルカはその状況を充実に編集したのです。今ここには貧しい人々がおり、泣いている人々がおり、差別のない公平を求めている人がいます。 持っている人々に対する厳しい警告です。柔和と憐れみ、聖潔と平和のない既得権者に対する災いの宣言です。彼らの富と楽しみは、貧しい人々が差別され、泣いている事の上に与えられているものです。だからでしょうか。マタイの福音書では、八つの幸いの話が終わると、「世の光と塩」について語られます。欲では満足することができません。わたしたちの時代と隣人の貧しさと悲しみに対する柔和、憐れみ、清潔と平和の心がある時、慰められる、満ち足らせ、天の御国が自分のものになるのです。