ルカの福音書 QT24 220204金【わたしに従って来なさいと言われても】ルカ 9章 51~62
ルカ 9章 51~629:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。9:52 そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした。9:53 しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。9:54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」9:55 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。9:56 そして一行は別の村に行った。9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」9:59 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」9:60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」9:62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」 イエス様がエルサレムに向かっているのは、十字架を背負うためです。十字架への道の上でも、人々はイエスを信じませんでした。病人と悪霊を追い出しましたが、人々はイエス様を受け入れませんでした。イエス様が何をしても、自分が信じるものを捨てない限り、イエス様を信じることはできません。それは今でも同じです。自分に信じるものがある限り、イエス様を信じることはできません。イエス様が拒絶されているのを見て怒りを覚えた弟子たちは、彼らを火で滅ぼすべきだと呪いますが、イエス様はそれも叱責され、他の場所に移動されます。 イエス様がどこに行っても弟子たちは従いますと公言します。このような稚気ある弟子たちに、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と言われます。すべての動物と人が自分の住む所を作って住んでいるわけですが、イエス様が特にキツネと鳥にたとえた理由を考えてみました。キツネは狡猾で、空中の鳥は鷲です。キツネと鷲は腐った肉を食べます。狡猾で腐ったものを食べる者が力と富を得、誇っていますが、十字架の道はそれを追い求めるものではないということでしょう。 今朝の説教は、箴言28章の「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。1」でした。「追う者もいないのに逃げる」という言葉は何か痛いです。イギリスの心理学者スティーブ・テイラーが「現代人は少しずつ狂っている」と言いましたが、認めざるを得ない診断だと思います。不安でなければ耐えられない現代人はすべてそうです。誰も追いかけてくる者がいないのに、リスがチェンホイールで回るように飛び回ります。獅子に追ってくるなら逃げるだろうが、追ってくる獅子はいません。ただ、自分が被害意識も持たず、獅子のように大胆に生きれば良いのです。 日常は重要です。生きるということは、いかに幸いなことでしょうか?どんな人生であっても、人生という贈り物を受けた人間は幸いです。しかし、使命を受けた人は日常に縛られません。優先順位を決めるということは、重要なものと重要でないものを区別し、重要ではないものを捨てるためのではありません。すべてのものに対して意味を守るためです。 イエス様に召された人々がイエス様に条件をかけました。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」ということです。イエス様は親をなくした人に葬儀もさせない、家族に挨拶もさせないような方ではありません。父親を葬るというのは、親を扶養し、後でなくなったら従いますということです。親を奉養しないこの時代の言葉に置き換えれば、退職し、子どもたちを結婚させてから従いますということです。 それは時間的な優先順位ではなく、価値の優先順位です。自分が価値があると思うことに先に従うだけです。捨てないと従えません。そして従わなければ握っていたことも取れなくなります。個人的に親がなくなったばかりなので、よく思い出します。親が望んでいた出世のところか、心配ばかりかけたことと、老いて病気にかかった親を寂しくおいていたことが、思い出す度に申し訳ないです。誰でも子どもなら皆そう思いますし、言い訳の余地もありませんが、すべての人は親から離れ、神様の言葉と召しの前に一人で立たなければなりません。自ら聞き従い、身をささげなければなりません。それが優先順位です。