ルカの福音書 QT46 220302水【パリサイ人の宗教、取税人の信仰】ルカ 18章 9~17
ルカ 18章 9~1718:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」18:15 さて、イエスに触れていただこうと、人々は幼子たちまで連れて来た。ところが、弟子たちはそれを見て叱った。18:16 しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。18:17 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 今朝のたとえ話は、9節でその主題と目的、理由をまとめてから始めます。「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。 9」イエス様が一貫的に怒っておられる対象は、信じない人ではなく、信じるが、その信仰が曲がってしまった人々です。 取税人は自分を知っているので苦しんでいましたが、パリサイ人はいわゆる自分の信仰に自分がだまされて自分を知らず、自信満々でした。パリサイ人は自分が「奪い取る者、不正な者、姦淫する者と同じではなく、この取税人のようでない」と言いましたが、言い方が巧妙です。「奪い取らない、正しい、姦淫しない」ではなく、「私は彼らと違う」と言いました。 自分を合理化する人です。客観的な事実は認めず、私は彼らとは違うということです。このような宗教を持ったパリサイ人が正義を持って貪らない生き方をしたことに同意することはできません。神様にささげる祈りさえも自らだますことを見ると、その宗教から真実と良心を期待することはできません。 「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。12」パリサイ人は定まった断食を守り、十分の一の献金をささげました。断食と十分の一献金は人の欲の問題です。断食し空腹を覚える時に、神様からの供給の恵みを覚え、大切な収入の十分の一を聖別して神様にささげるたびに、その主権が神様にあることを覚え、告白するのです。 ところが、これが宗教になると、十分の一をささげる人はしない人に対して特権意識を持ち、さらに金額の多い人と少ない人を等級に分けることになります。そこに功労意識があります。自分の十分の一で維持される神殿で敬虔でもなく、信仰もない取税人が入っていることがすでに気に入らないのです。自分は取税人より上にあるべきだと思いますし、自分が注目を受けなければならないと思います。主導権も自分が持たなければならないと思います。 ささげますが、神様に喜んでささげたことでなければ、教会の功労主義者になります。それが誇りになり、恨みになり、争いになって教会は崩れ落ちます。聖徒がささげる大切な献金によって、教会は維持され、礼拝し、宣教していきます。ですから,共同体はその献身にお互い感謝しなければなりません。しかし、本人の立場では神様にささげたものでなければならないのです。神様にささげたものをその手から奪い取ってはいけません。イエス様の結論は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」でした。