マラキ QT7【朝の日当たり】2204030(土) 枝川愛の教会
マラキ 4:1~64:1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──4:2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。4:3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は言われる。4:4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」 今日でマラキは終わります。マラキが終わるということは旧約が終わることです。すなわち預言者の懲らしめも終わり、預言も終わります。聞きたくなかった懲戒と滅亡の言葉も終わります。最後まで悔い改めなかった人々には機会も終わります。その後、新約聖書が開かれるまで、400年間、聖書は沈黙します。多くも世代が生まれてまた死にました。みことばがなかったので、その世代は心に刺されることもなかったと思います。それで幸せだったでしうか?預言者の言葉を聞かない世代は、信仰の可能性も希望を完全に失いました。400年後にバプテスマのヨハネが来たとき,地上で希望を求めた者たちは,地上の希望を完全に失っていました。 地面ばかりを見つめて生きると、天のことが分かりません。自分の人生と必要だけに心を奪われると、歴史の中で働けれる神様のことはわかりません。パズルが合わないから混乱してしまいます。なんとか意味を探そうとしますが、前後事情が読み取れません。頑張っても自分自身という枠組の中で神様を解釈することはできないからです。結局、私たちに与えられた短い時間には疑問と虚無しか残りません。しかし、目を上げてみると、神様は私たちの人生を超えて神様の働きを進めておられます。聖徒は、歴史の中で成し遂げられる神様の働きに一片にでもなりたいという願います。そうすると、パズルの端の少しが見えてくると思います。 この春は、晴れた日より雨の日が多かったです。今朝は日が上りました。神様は言われます。「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。4:2」神様と神様のみことばを恐れ、信仰に生きる聖徒は、癒やしの光が照らされます。縛られたことから解き放ちます。解放を経験し、爽やかな日差しの中で跳ね回る子牛のように幸せと喜びを楽しみます。洗濯機から解放された洗濯物が日光に消毒され、乾かれ、踊っている姿が平和です。療やしの光、解放の喜びが聖徒の信仰の道の上にあることを願います。