枝川愛の教会 受難週 黙想【まだ罪人であったとき】220416土
ローマ人への手紙 5章 6~115:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。 自分の欲に満ちた人々はイエス様を殺し、イエス様は彼らを赦すために十字架につけられました。十字架の上で「完了した」と言われ、なくなりました。これで救いのためのイエス様の使命は確かに成就されました。救いのタイミングについて、ローマ人への手紙はこう言います。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。5:8」十字架は罪人に対する神様の愛ですが、そのタイミングは罪人がまだ罪人である時です。 先に愛したのは神様です。 十字架の事実を知ったからといって、イエス様が成就された救いの装置が自分の中で自動的に完成されるわけではありません。救いが自分の中で確かになるためには「信仰」が必要です。もちろん、イエス様が代わりに受けたので、自分地自身で罪の罰を受けることではありません。しかし、救われる人は自分の罪を持ってきて十字架にかけなければならないです。自分と自分の罪を認め、それを表して十字架にかけなければなりません。赦しは悔い改めを前提とします。悔い改めずに赦しを語るのは、罪をさらに築くことになります。自分の罪を認めなければ、救いの十字架を信じることはできません。十字架は罪人にための赦しの装置だからです。イエス様は口で十字架を負ったことではないです。実際に血を流して死なれました。神様と和解するためには十字架の救いの装置を信じ、その十字架に私の罪をかけなければなりません。