マラキ QT5【什分の一献金について】2204027(水) 枝川愛の教会
マラキ 3:7~123:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。3:9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。3:11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──3:12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。 最近、メディアでは什分の一献金への関心が多いようです。しかし、真剣な神学的悩みのようではなく、什分の一献金を出さなくてもいい根拠を探しているするようです。什分の一が聖書的ではないということを言っていますが、聖書的ということはそれほど単純に言えません。通典的な理解なしにいくつかの箇所を引用することで聖書的と言うことはできません。献金をしなければならないと主張する人の根拠も同じです。結論を作ってから根拠を裏付けることは反則です。聖書を読み続き、それに従って理解し、告白し、実践し、生きることこそが聖書的です。 什分の一への関心は、おそらく教会の財政管理の不健全とかみ合って、否定的な視点で扱われているようです。この時代に教会財政管理というテーマは十分批判と議論の対象だと思います。しかし、教会財政管理と聖徒の什分の一献金は厳密に別々のテーマです。神様を認め、神様に仕え、献身するのが聖書的な生き方です。それを邪魔するのは人間の欲です。欲のために聖書的な根拠を見つけようとするから恥ずかしいです。 今朝の本文の理解のためには、解説や解釈が要らないと思います。「人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。…十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」 個人的には聖徒が献金の負担に押されず、自分の収入をもって豊かな生活を営めればと思います。しかし、豊かな人生は神様の中でのみ楽しめるものです。神様を排除した人間の欲が幸せにはならないのが一貫した聖書的な理解であり、告白です。神様にささげることが苦しいくびきではなく、財政の世界で神様を経験する人生の実際のものになることを祈ります。