Ⅰコリント 黙想11【福音のための権利留保】220518(水) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 9:1~129:1 私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。9:2 たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。9:4 私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。9:5 私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。9:6 あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。9:7 はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。9:8 私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか。9:9 モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。9:10 私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。9:11 私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。9:12 ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。 一人の専任の教職者が教会で常駐できる環境でなければ、結局のところ、教会は持続可能ではなくなり、植物教会になり、ついに消えていきます。その最終的な責任は牧師が負って離れなければならず、地域には教会がなくなります。今の時代にそれは進んでいます。最近の教会への失望に疲れた人たちは「聖徒が教会」と言い、「生活が礼拝」ととなえました。言葉はすべて正しいと思いますが、聖徒が教会であり、生活が礼拝であれば、ローカル教会は決して弱くならないものです。実を見ると木が分かります。教会になりたく、礼拝をささげたくない自己愛の欲の言い訳、離脱の言い訳です。責任を負わない献身というのはありません。責任を負わない使命もありません。建物が教会ではないという言葉にもちろん同意しますが、それにしても教会はスペースを必要とします。未だにオンライン礼拝で満足した人は誰もいませんでした。地域の中に根ざした地域共同体の教会は依然として大切です。聖徒とは、その責任を共に負う人々です。今後さらに多くの無責任が離脱し、それに伴って教会が弱くなると、名前だけ献身者といったものたちも一緒に消えていきます。 コリントにはパウロを使徒として認めない人々がいました。パウロは自分が開拓した教会で使徒の権威を認められませんでした。パウロは行く所ごとにたたかれながら教会を開拓しましたが,自分の手でアルバイトをしながら宣教したのです。財政的な報酬と権利も与えわなかった分けです。パウロが報酬を受けることは正当ですが、自分自身が教会に財政的な負担を与えたくなかったからです。パウロは、ぶどう園を造る人が、その実のぶどうを食べ、羊飼いが羊の乳を飲むことはこく当然なことであると言います。律法で脱穀をしている牛に口籠をはめてはならないと言ったのは、働く人に食べる権利を保障しなさいという意味です。パウロも家族と一緒に暮らし、定住し、安定した生活を楽しむ権利があります。しかし、すべてが可能ですが、自分の使命の中ですべてが再編されました。それは神様とパウロの約束です。召しと従順です。ですから、パウロがさびしいから言うのではなく、教会が整備しなければならない持続可能な構造について言っているのです。その構造とは、第一に自分が献身するとき、そして第二は、献身した人々が一緒に力を合わせるときに作られます。その権利留保と献身の理由は、12節に代えることができると思います。「ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。12」