Ⅰコリント 黙想12【やらなくてはいられないこと】220519(木) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 9:13~189:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。9:14 同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。9:17 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。 福音を伝えることにも財政は必要です。専任教職であれば給料を受けなければ専任の仕事をすることができません。パウロはここで自分はその財政を使わなかったと言いますが、その理由は、財政が必要でないからではなく、正当性がないからでもなく、財政が供給されていなかったからです。パウロに財政がまかなわれたなら、福音のために、そしてそれのための自分の生活の安定のために、有効に用いたと思います。しかし、財政を供給すべき人々はそれを担いたくありませんでした。 彼らはパウロのために支えなかったし、パウロもそれを受けようとしませんでした。読んでみると、パウロが怒っていることがわかります。お金のことではありません。パウロは「それを用いるよりは死んだほうがましです15」と言ったほどに誤解されながら財政を用いたくはなかったのです。しかし、福音は伝えなければならず、働き者は生活しなければなりません。それでパウロはアルバイトをして生活費と働きに必要はお金を設けました。もちろん、パウロがずっとアルバイトをしたことではありません。宣教に専念したときがもっと長いです。そして、忠実にパウロの働きを支えてきた教会と人々も確かにいます。 牧師にこのような話は嬉しいテーマではありません。おそらくパウロもそうだったと思います。いわば牧師も人ですから傷つきます。ある牧師は、自分が傷つきたくないように教会と聖徒を支配しようとします。自分が欠乏されたくないから欲張ります。弱いからです。怖がるだからです。だからといって情状を酌量するわけではありません。牧師にとっても聖徒にとっても、教会が神様のものであるという事実を忘れてはいけません。今日の誓いは、18節に代わりにします。「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。18」