Ⅰコリント 黙想14【今、ここで】220521(土) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 10:1~1310:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。10:7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。10:8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。10:9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。10:10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 9章で「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。27」と言われたのは、謹慎する思いです。謹慎する人は、謙虚に過去を振り返り、自分を省察し、歴史的な教訓から学びます。パウロはイスラエルの虚しい歴史、イスラエルの民が神様の前で失敗したことを言い出します。それを読んでみると、不従順の歴史が苦しいです。「私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。1」過越を経験し、乾いた紅海を渡った奇跡、雲の柱、火の柱で守られた恵みを経験しました。しかし、その奇跡の恵みは信仰につながりませんでした。「みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました 3,4」彼らはまた毎日に奇跡的な食事をしました。マナを食べました。しかし、マナに飽きます。岩から水が出て、水を飲んだことも覚えませんでした。お腹が空いたたびに、のどが渇いたたびに、疲れたたびに、モーセを殺そうとしました。不平不満を言い、モーセに対抗して多くの人が死にました。「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました 5」 パウロはこれを持って現在を解釈します。「あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れたと書いてあります。また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。7,8」出エジプト記32章で、モーセが律法を受けに行った間、アロンと人々は金の子牛を作り、それに仕えました。そのことで3千人を死にます。民数記25章にイスラエルの民がモアブの女性たちと淫行し、異邦の神に仕え、その日に2万3千人が死にました。コリントには偶像の神殿で働く公式の売春婦が千人もいたそうです。祭司というのはつまり淫行でした。パウロはそれと戦わなければなりませんでした。行為で救われません。ただ信仰に寄ります。しかし、人生の行為が信仰の真意を証明します。それらと戦わなければなりません。感謝を忘れ、神様の民であることを忘れ、恨み、不平不満をつぶやき、淫らで、高ぶる人は倒れます。 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい 12」すべてのクリスチャンには時代という使命が与えられています。 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。13」たとえ、嬉しくない環境であっても、それが自分自身に与えられた信仰の舞台です。今、ここで恵みを覚え、自分を振り返り、信仰の歩みを続けなければなりません。