Ⅰコリント 黙想2【噛み砕けない人】220507(土) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 3:1~153:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。3:5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。3:10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。3:11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。3:12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、3:13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。 信仰の情熱があっても、その本質が何であるかを毎日質問しなければ、信仰は脱線していきます。目に見えることにに留まるとだまされます。本質を弁えて日々回帰しなければなりません。コリント教会は人々に人を祭っていました。目に見える現象によって流れると本質を失います。神様を信じる信仰から始まった教会は、神様のみことばを聞かなければならず、その過程でみことばを伝える人々を追従し始めたのです。何人かの説教者を中心に分派が形成されました。 そこには必ず離間する者、陰で悪口を言う不満を抱いた者がいます。「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。3:3 」パウロはそのような人々を固い食物は食べれず、乳を飲ませる未熟な者とたとえます。固い食物と乳にたとえたのは、神様のみことばを受け入れる方法です。有名な牧師の説教、おもしろい説教に 群をなして歩き回わる世態は、その時も今も同じだったようです。 アポロは当時ギリシャの学問の産室であるアレクサンドリアで勉強した碩学です。アポロの説教はとても興味深く魅力的なものだったと思います。それで、コリントの人々はアポロがパウロよりも説教が上手だと評価しました。しかし、使徒働き18章によれば、アポロはキリストと霊的な理解にまだ欠けがある人でした。知性は優れていましたが、霊的な知識と経験はそれほどではないです。パウロはアポロを競技者とみなしたことはありません。まだ成長しなければならない働き手と彼らを巡って教会が分裂するのを心配しているのです。 多くのことを聞くのは良いことです。しかし、何を聞いても、自分自身が噛み砕く必要があります。神様のみことばを聞くということは、誰かの話を聞くことではなく、自分がどのように解釈し、消化させるのかという問題です。それによって成長することができます。みことばを聞き、それを持って行ってにれかみ、神様のみことばを自分とつなげなければなりません。説教に付いて歩き回わるのではなく、自分がみことばを皮をむいて噛み砕いて食べる力がなければなりません。教会の照明は、説教者ではなく説教者が伝えることの中にあるイエス・キリストを照らすべきです。