Ⅰコリント 黙想29【死の死亡】220608(水) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 15:50~5815:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。 パウロはコリント教会の聖徒たちに霊的な秘密と言います。死と復活を「変化」という言葉で言います。聖徒は死ぬことではなく、変化すると言います。朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着ます。それで復活の勝利が死を吞み込むことになります。死が死にます。死が死んだのは復活のゆえです。それはイザヤ25章の預言の成就です。「永久に死を吞み込まれる。神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。」 私たちにとって、復活はどういう意味ですか?誰もが死を恐れています。しかし、復活は死を飲み込みます。55節の「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」は、「死がいつ勝ったのか、死の毒針はどこにあるのか」と死を叱っているのです。死の毒は罪です。しかし、キリストの死と復活によって消滅しました。ですから、イエス・キリストによって私たちが勝ったのです。私たちという一人称複数は、イエス・キリストの復活を信じる聖徒たちです。 復活を信じない人は、自分が死ぬ存在であることも信じません。目に見える死も自分のもので信じないから、復活を信じることはそもそもできません。死を信じる人であるなら、復活の福音は信じざる得ません。ですから、まず、死を受け入れなければなりません。その上に復活の信仰を受け入れなければ、その信仰が死を打ち破ります。パウロはそのような聖徒たちに信仰の上で神様の働きに忠実であることを求めます。キリストのために復活する聖徒の忠誠は、キリストの中で無駄でないことを知っているからです。