エステル 黙想11【救いを記念するジャンチ】220623(木) 枝川愛の教会
エステル9:17~289:17 神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる。9:19 もし、力のことなら、見よ、神は強い。もし、さばきのことなら、だれが私を呼び出すのか。9:20 たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。9:21 私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。9:23 突然、にわか水が出て人を死なせると、神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。9:24 地は悪しき者の手に委ねられ、神は地のさばき人らの顔をおおわれる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。9:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。9:26 それは葦の舟のように通り過ぎる。獲物をめがけて舞い降りる鷲のように。9:27 たとえ「不平を忘れ、悲しい顔を捨てて明るくふるまいたい」と私が言っても、9:28 自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。 ユダヤ人たちがハマンの虐殺の計略から救われた喜びを記念する日が「プリム祭」です。イスラエルでは、今でもプリム祭を国家的な祝日として守られています。モルデカイはこの記念日にジャンチ(宴会)を開き、お互いにプレゼントを交わし、貧しい人々に慈善を施すように命じました。それで、今でもユダヤ人は毎年の早春のプリム祭になると、エステルを読み、喜びのプレゼントを送り、貧しい人に対する慈善を施すことを守っています。そしておいしい食事をもって晩餐を楽しみます。 本来、ユダヤ人の三大祭は、過越祭(Passover)と七七節(Pentecost)、そして庵の祭り(Tabernacles)です。これはモーセが律法で定めたものであり,安息日のように聖なる日になります。ところが、プリム祭は律法が定めた季節ではないので、ユダヤ人はプリム祭に働いても、商売をしても、買い物をしてもよいのです。ですから、いつもの祭りとは異なり、町は盛大な楽しみの祭りになります。 エステルには「ジャンチ」がたくさん出てきます。初めからジャンチでした。元王妃ワシュティが廃墟され、エステルが王妃になる時もジャンチであって、ジャンチでハマンを殺し、救われた後もジャンチでその日を記念します。しかし、ユダヤ人はイエス・キリストのない救いを記念しています。モルデカイによる救いは永遠の救いではありません。それはしるしです。神様はイエス・キリストを通して救いの装置を完成しました。 イスラエルはハマンの虐殺から救われましたが、ローマとナチスの虐殺にまた犠牲になりました。救いは歴史の出来事ではなく、魂の永遠の約束です。プリム祭にイスラエルに行かなくても、私たちは毎週のように救いの喜びを覚え、ジャンチを開き、お祝いしています。聖徒とともに晩餐をとり、みことばと生活を分かち合い、主の聖餐にあずかる礼拝が、プリム祭よりも盛大なジャンチなのです。私たちは、食べて、飲んで、また、分かち合って、仕え合うジャンチを通して、プリム祭が知らないイエス・キリストの救いを伝えます。