Ⅱコリント7【外なる人、内なる人】2200714(木) 枝川愛の教会
Ⅱコリント 4:13~184:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。 人には外面だけではなく、内面もあります。見えるところがあれば、見えないところもあります。この人間の二重性は仕方がないのですが、さらに悲しいのは、自分の外面を自分の内面であると勘違いしていることです。新しい服を着たからといって新しい人になるのではなく、顔に化粧をしたからといって心が美しくなるわけではありません。私たちは外面、見える世界がすべてのように生きていますが、実は世と見えるものは滅びていくものです。新しいものは古くなり、若いもの衰え、生きていたものは死んで消えていきます。舞台に上がりましたが、すぐに退場しなければなりません。それが恐い人は、医学の発達で寿命が長くなり、ケアを通して健康になると期待します。肉体を健康に管理することは重要ですが、健康な人もいつか病にかかり、事故に遭って死ななければなりません。より根本的なケアをしなければなりません。 肉体が弱くなることに連れ、肉体が健康な時には知らなかったことに気づくようになります。臨終を迎える人は、もはや肉体には期待できないことを知っているので、ようやく内なる人が出てきます。最後の瞬間に愛と赦しと後悔と感謝を語ろうとしますが、その一言を言うことができずに死にます。内なる人が起き上がるときは、外面を信頼できない時からです。生まれ変わった人というのは、神様を信じ、受け入れ、すでに自分の肉体に絶望した経験を持っている人です。だから、生まれ変わったクリスチャンです。ところが、信仰生活の中でも霊、すなわち内なる人は眠っています。外なる人の公式に内なる人の答えを求めてみますが答えが見つかりません。外なる人のスケジュールに巻き込まれると、霊は息詰まります。自分の内なる人を目覚めさせ、弱い肉体と同行していきたいと祈ります。