Ⅱコリント9【キリストのうちにあるなら】2200716(土) 枝川愛の教会
Ⅱコリント 5:11~215:11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。5:12 私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。 「私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。13」パウロは今まで無理したことがあるなら、それは神様のためにしたことであり、完全にしたことがあれば、それは教会と聖徒のためにしたことだと言います。その熱意と献身を知ってもらえずに、逆に裏切られ、排斥されたら、パウロの心は彼らから離れるようなことでしょう。 しかし、パウロはすべてが神様から出ることだと言います。すべてが神様から出てきて、神様がキリストを通して私たちを神様と和解させ、それに従い、私たちにも和解させる職分を与えられたと言います。だから彼らも神様から出てきたので、すべての状況が神様の中にあります。パウロを非難する人々、苦める人々さえも神様の許しの中にいます。 そして14節、15節でキリストの死について語ります。キリストの死こそ、神様の愛が私たちを捕らえているということです。一人がすべての人に代わって死んだので、皆が死んだのです。キリストが代わりに死んだのは、それによって生きた人々がキリストのために生きるようにするためです。パウロが死んでキリストのために生きていなかったならば、パウロはこの状況に耐えられなかったでしょう。 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。17」神様の恵みの中で生きました。この告白が自分を裏切り、非難した人々に対しても耐えた理由であり、むしろ彼らのために求め、彼らのために自分の命さえも惜しまないと告白した力です。「キリストの中」にあれば、「新しい被造物」です。パウロがコリント教会に教えようとするのは、すでに神様がパウロに教えておられたことです。情熱と忍耐の理由は、すでに神様から受けた恵みの中にあります。