Ⅱコリント10【とともに死に、ともに生きるために】2200719(火) 枝川愛の教会
Ⅱコリント 7:2~77:2 私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。7:3 私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。7:4 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。7:5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。7:7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。 パウロとコリント教会が葛藤したのは、パウロがコリント教会に対して教会らしさを求めたからです。パウロはコリント教会に対して教会らしさと聖徒らしさを求めました。ところが、コリント教会はその叱責を受け入れず、人格的な問題にし、パウロとコリン教会が対立して葛藤したのです。ここでパウロは、責任について話します。教会と聖徒には責任があります。それに教会の存在目的であります。パウロはそれを放置しているコリントについて厳しく警告したことであり、その旨を訴えています。 私たちはもし誰かの財産を損壊したら、その責任を負い、賠償をしなければなりません。職場で業務の責任がどこまでなのかを確認し、責任を負わないことはしません。もちろん、私たちは私たちの責任の中で働かなければなりませんが、自分の人生に対して責任を負うということは、人生の道の中で出会うことに責任を負うことではないでしょうか。回避できません。使徒パウロは、神様の働きができない責任は誰が負うかと問います。教会が教会らしく立てられない責任は誰が負うのか、宣教が進展しない責任は誰が負うのでしょうか。パウロは信仰と宣教の共同体であるコリントに「とともに死に、ともに生きるために」と彼らに与えられた責任を勧め、訴えます。「私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。3」