創世記 黙想18【不可抗的恩恵】220919(月) 枝川愛の教会
創世記 25:19~3425:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻に迎えたときは、四十歳であった。25:21 イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。25:23 すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」25:24 月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。25:26 その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。25:27 この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。25:28 イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた。25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。25:31 するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。25:32 エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。25:33 ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。25:34 ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。 神様は人を選び、用いられます。長子であるエサウを選ばず、弟のヤコブを選んだのは、神様の主権です。それを人間が納得できる方法で原因を作り出し、教訓にしようとすることが無理です。神様が誰を選び取ったのかは、神様の固有の主権です。パウロはローマ書で神様の選択主権についてこう述べました。「神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。 9:11-13」 パウロが神の選択主権を語りながら引用したのは、ヤコブの話です。この物語の主題は、ヤコブに長子の願望があったから選ばれ、エサウは長子の職分を軽く考えたから脱落したという行動の結果ではありません。エサウが何を間違っているのか、ヤコブは何をよくしたのかの評価ではありません。すでにリベカの胎内に双子がいる時から、神様は兄が弟に仕えると言われ、それが成就されたのです。神様の選択は行為の結果ではありません。もしそうであるなら、誰も救われることはできません。 神様は老人のアブラハム、不妊のサラを選ばれ、強いイスマエルではなく弱いイサクを選ばれ、男らしいエサウを捨て、卑怯なヤコブを選ばれました。選択されるのは不可抗力的な恵みです。イエス様もヨハネによる福音書で弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。15:16」これは本当です。使命は、自分が作るものではなく、召され、与えられるるものです。企画力ではなく、御声を聞く力とそれに聞き従う信仰が必要です。神様は選び取った人に賜物を与え、神様の働きに加えられます。 教会で神本主義と人本主義という言葉をよく耳にしますが、文字的の「人本」と「神本」を対比して人本は堕落したもの、神本は聖なるものと言ってますが、そのような言葉はもともとありません。人本主義というのは人文主義のことを言うようですが、「人文主義(Humanism)」でなければ、つまり人間を知り、人間の尊厳を認めなければ、神様を知ることもできず、会うこともできません。ルネサンスの後に宗教改革が起こったことを覚えておく必要があります。人間が大切なのは、聖書を貫く神様の視線が人間を大切にしてくださるからです。 私たちが警戒しなければならないのは、聖書を伝える人々が人間の行為に応じて教訓を作ろうとする人間本位的な態度です。それこそが人本主義と名付けられます。聖書を偉人殿を読むように読むのです。自分がまず神様に何かをしたから、神様が自分にあれこれを与えたということです。仏教ではそれを致誠といいます。ギブ&テイク(Give and Take)です。しかし、赦された罪人が言う証はそのような証しではありません。証しすることは、私も私を誰なのか知りませんが、神様が罪深い私を選び、救ってくださり、神様の働きに参加してくださる恵みです。「ひもすがらあかしせんよもすがら主をほめん。御救いは妙なり御救いは奇しと」