創世記 黙想22【リベカを再評価する】220923(土) 枝川愛の教会
創世記 27:1~1427:1 イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。27:3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。27:4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、主の前でおまえを祝福しよう。』27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」27:11 ヤコブは母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。27:12 もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります。」27:13 母は彼に言った。「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。」27:14 それでヤコブは行って、取って母のところに持って来た。母は、父の好む、おいしい料理を作った。 イサクが祝福する対象は、二人の息子のうち一人だけです。イサクは長男のエサウを祝福しようとしますが、リベカは次男のヤコブが長子の祝福を受けるように策をめぐらしています。確かに「こまかし」ですが、リベカを非難するなら、イサクにも非難されるところがあります。それはエサウとヤコブも同じです。それぞれにとががあります。リベカがヤコブを愛したように、イサクもエサウをえこひいきしました。ヤコブは小策を弄する人でありますが、エサウは自分の勝手に生きる人でした。カナンの女と結婚してはいけないと言ったのですが、結婚し、さらにもう一度結婚した人です。 リベカはエサウの結婚問題でエサウが嫌になったのでしょうか?それも一つの原因かもしれません。しかし、もっと重要なことは、25章でリベカが神様の啓示を受けたことを覚えなければなりません。「すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。25:23」まるでマリアが受けた神託のようです。人に説明したり説得できるものではありません。姑のサラは神様の神託を無視しましたが、リベカはそれを心に抱いていたのです。 リベカが非難されるのは、それを「だまし」という方法で成し遂げようとしたからだと思います。しかし、それが正しいかどうかを断言するのは難しいです。これによる結果は2つがありました。一つは神様のみことばが成し遂げられることであり、もう一つはリベカが孤独で不幸な余生を送るということです。ヤコブを逃げ出してから、夫イサクとの不和、そしてヤコブを殺そうとするエサウとの不和をリベカは一人でそっくりそのまま負わなければならなかったでしょう。そして愛する息子ヤコブを生きている間に二度と会うことができなくなります。戻ってこない息子に会いたかったでしょう。 13節を見れば、リベカは、恐れているヤコブに「すべての責任と呪いを自分で負うから、祝福の祈りを受けさない」に促します。自分が神様から受けた神託、つまり、ヤコブを約束の子として立てることに献身しているのです。リベカの人生をたどってみると、それはヤコブに対するえこひいきよりも、神様のみことばに対する信頼と献身です。神様はイサクに言われませんでした。リベカに啓示され、彼女の献身を通して成し遂げられたのです。 神様は人間の利己心と欲、そして怒りと弱さなどの不完全な人格が作っていく歴史の中で、神様のみことばと約束を実現しておられます。そういう意味で、リベカは神様の拘束のパズルの中でとても重要な一つになりました。完全な人もいなく、完全な信仰もないのですが、完全なる神様の約束のみ言葉が不完全な人々を通して成し遂げられていくことを創世記は絶えず私たちに語っています。