創世記 黙想32【ラバンの失敗】221006(木) 枝川愛の教会
創世記 31:36-4231:36 するとヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに向かって言った。「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか。私をここまで追いつめるとは。31:37 あなたは私の物を一つ残らず調べて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったなら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たち二人の間をさばかせましょう。31:38 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。31:39 野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。31:42 もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」 ラバンについては、人間そのものが邪悪な人だとは思いませんが、貪る人間で、自分と周りの現在的な把握ができない人でした。それで20年間、神様から与えられたすべての機会を失います。ラバンは地域の有志であり、家父長的な世界の既得権者だったのでので、財産と労働の力がいかに大切なのかをよく知っていました。ラバンの論理は、父の家がよくなれば、ヤコブの家もよくなるという論理だったのかもしれません。それは、資本が労働に常に言っている習慣的な論理でもあります。 資本の立場では見過ごすがちですが、労働の現場では不公正とそれによる悔しさという人間の苦痛があります。ヤコブは薄給にも業務上のやむを得ない損害まで自己責任と思って賠償しましたが、ラバンはその構造を改善せず、成果のみを求め続けました。ラバンは下部構造でどのような不合理があるかを知ろうともしなかったし、それを正そうともしませんでした。むしろそれを助長しました。確かにヤコブによる成果はありましたが、その成果を資本に蓄積し、ヤコブに支払うべき労働の代価は定めることも、払うこともしませんでした。 数千年経ってもラバンのような貪りとそれによる被害は今にもあります。雇い主は正当な代価を保障されず、犠牲を強いられている労働者がいないか振り返り、その処遇を変えなければなりません。 それが雇い主ラバンがすべきことでした。 そうでなければ忠誠のヤコブたちはいなくなります。そして神様は卑劣なラバンたちを決算します。ラバンの失敗は、信仰の失敗でも、経営の失敗でもなく、人間の失敗です。