創世記 黙想48【牢屋で会った人】221026(水) 枝川愛の教会
創世記 40:1~840:1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。40:2 ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、40:3 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。40:4 侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。40:5 さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。40:6 朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。40:7 それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。40:8 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」 投獄さられたヨセフは、獄中でもできる限りのことを誠実に、実に行います。誰にいてもどこにおいてもそのような誠実さが人々に伝われると信頼を受けます。いつまでも続くか分からない牢屋の時間ですが、ヨセフは最善を尽くして働きます。より良い条件が与えられれば、より良いことができると思いがちますが、神様は劣悪な条件の中でも真正性を判断することができます。それが確認されれば、信頼が与えられ、機会が与えられます。 神様の働きは出会いを通じてなされていきます。信仰の証はいつも出会いから始まり、出会いで終わります。同役者の出会いだけではありません。予期せぬ出会いを通じて新しい歴史が続きます。『心に折り合いをつけてうまいことやる習慣』を書いた90代の女性の医師は、自分の人生経験を通して人の運命を左右するのは人との縁であり、それは全く偶然だと言いました。90代の先輩らしく、素直ながらも正確な結論だと思います。因果関係を説明できない数多くの偶然が私たちの人生を作っていきます。 人間にとっては偶然ですが、神様にとっては摂理であり、計画です。ですから、私たちは劣悪だと思い、損だと思うすべての悔しい瞬間、そして何の役にも立たないと思う会うすべての人に対して丁寧にしなければなりません。ヨセフは確かにそうでした。それが偶然と絶望を成功に変える力でした。人ではなくその人の後ろにおられる神様を見上なければなりません。