詩篇 黙想33【幸いなことよ】221124(木) 枝川愛の教会
詩篇 32:1~1132:1 幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。32:2 幸いなことよ主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。32:3 私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。32:4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ32:5 私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ32:6 それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かってあなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り救いの歓声で私を囲んでくださいます。セラ32:8 私はあなたが行く道であなたを教えあなたを諭そう。あなたに目を留め助言を与えよう。32:9 あなたがたは分別のない馬やらばのようであってはならない。くつわや手綱そうした馬具で強いるのでなければそれらはあなたの近くには来ない。32:10 悪しき者は心の痛みが多い。しかし主に信頼する者は恵みがその人を囲んでいる。32:11 正しい者たち主を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ喜びの声をあげよ。 ダビデが部下の妻と不倫を犯し、それを隠すために忠誠な部下を殺します。今日の詩篇はそれを背景にしています。しかし、時間がかなり経った後に書いたものです。ダビデは確かに酷い罪を犯しましたが、当時ダビデ本人じは力に酔っていたせいか、それに対する自覚がありませんでした。欲にとらわれて、わざと知らんぷりをしたのかもしれません。預言者ナダンがそれを責めた時、王ダビデでは否定することもあり、力で押しつぶすこともできたでしょう。しかし、ダビデは自分と自分の罪を認め、ひざまずきました。ダビデがよくやったのは罪を犯したことではなく、それを悔い改めたことです。 今日の詩篇にはダビデの邪悪な罪とそれに伴うダビデの人生の苦痛が出てきます。しかし、その中でも「幸い」という言葉があります。この幸いは罪を犯していない人のことではなく、自分の罪を知っている人のことであり、それを認め、ひざまずくことができる人のことです。だから幸いのない人は自分の罪を知らず、告白もせず、悔い改めることをしない人です。福音が神様の赦しであるということを覚えれば、悔い改めは罪人の方からできる最善のことです。