創世記 黙想58【エジプトに行くヤコブ】221111(金) 枝川愛の教会
創世記 46:1~746:1 イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」46:3 すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。46:4 このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」46:5 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。46:6 そして、家畜とカナンの地で得た財産を携えて、ヤコブとそのすべての子孫は、一緒にエジプトにやって来た。46:7 彼は、自分の息子と孫、娘と孫娘、すなわちすべての子孫を、一緒にエジプトに連れて来た。 ヤコブは老年になってカナンを離れ、エジプトに移住することになります。ヤコブ一家のエジプト行きには選択の余地がありませんでした。ヨセフに会えることだけではなく、家族全体が飢饉の危険から逃れる唯一の機会からです。一方、ヤコブは恐れていたと思います。約束の地のカナンを捨てて、家族全員を連れて異邦の地、エジプトに行かなければならなかったからです。 ヤコブはエジプトに行く途中に父親のイサクが神様に会ったベエル・シェバで立ち止まって礼拝します。本文は、をヤコブが「父イサクの神にいけにえを献げた」と言います。それは父の地を離れる息子の気持ちと、カナンを守れなかった恐れがあったからだと思います。神様は複雑な心のヤコブの夢に現れ、「エジプトに下ることを恐れるな」と言ってくださいます。一寸先も見通せず不安な時に神様の御声が聞こえるのは幸いです。御声が聞こえるのは恵みです。神様の御声を聞いてから動く人は揺れ動きません。 カイロス(神様の時間)をむやみに判断してはいけません。ヨセフが夢を見てから総理になるまでには、多くの事件と時間が必要でした。人間がその時間を早めたり、遅らせたりすることはできません。神様がアブラハムに約束された繁栄する民族という約束の空間的な背景がエジプトになるとは思いませんでした。その約束の子孫がエジプトの奴隷になることも予想しませんでした。しかも、500年の後にカナンに戻ってきます。だから、クロノス(人間の時間)にカイロス(神様の時間)を無理やりに入れ込むことはできません。 神様は歴史の主人公であり、神様が全体のパズルを持っておられます。人生は、そのパズルの上に置かれている破片のようなものです。人間は独立的に自分の人生の目的と意味を見つけることはできません。神様のパズルの中でその位置と意味が分かります。一つの時代を作るパズルのピースとなって自分の場所を見つけなければなりません。ある人は離れなければならず、ある人は止まらなければなりません。使命は自分で作ることではなく、神様が定められ、召されることです。置かれている状況で神様の御声を聞き、それに聞き従い、神様の国というパズルに一つのピースになることを願います。