詩篇 黙想40【心に神のみおしえ】221202(金) 枝川愛の教会
詩篇 37:27~4037:27 悪を離れて善を行え。いつまでも地に住め。37:28 まことに主は義を愛し主にある敬虔な人をお見捨てにならない。彼らは永遠に保たれるが悪しき者どもの子孫は断ち切られる。37:29 正しい人は地を受け継ぎいつまでもそこに住む。37:30 正しい人の口は知恵を語りその舌は義を告げる。37:31 その心には彼の神のみおしえがあり彼の歩みはよろけることがない。37:32 悪しき者は正しい人を待ち伏せ彼を殺そうとする。37:33 主は悪しき者の手の中に彼を捨て置かずさばきのときにも彼を不義に定めない。37:34 主を待ち望め。主の道を守れ。主はあなたを高く上げ地を受け継がせてくださる。あなたは悪しき者どもが断ち切られるのを見る。37:35 私は悪しき者の横暴を見た。彼は野生の木のようにはびこっていた。37:36 だが彼は過ぎ去った。見よ彼はもういない。私は捜したが見つからなかった。37:37 全き人に目を留め直ぐな人を見よ。平和の人には未来がある。37:38 しかし背く者はことごとく滅ぼされ悪しき者どもの未来は断ち切られる。37:39 正しい人の救いは主から来る。苦難のときの彼らの砦から。37:40 主は彼らを助け解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち彼らを救われる。彼らが主に身を避けているからだ。 ダビデは強い口調で悪から離れ、善を行うようにと言います。37篇が言う善と悪は明確に対照しています。問題は自分自身にとって善と悪の理解が非常に主観的かつ抽象的だという点にあります。善と悪とは何かという大切な理解を自己合理化の中に混ぜてはいけません。自分が善であって他人が悪であるという論理では魂が混乱するだけです。第三者の視線、否、神様の観点から私はどこに属するのかを冷静に判断しなければなりません。この能力がなければ、神様の中にいるのではなく、自分の中に神様に似たものを作ることになります。そのような場合、宗教は社会と対話できず、かえって刀になり、暴力になります。対話が通じない、利己的で、無礼で、暴力的な宗教…堕落した宗教が自ら善であると考える限り、その宗教の唯一の望みはダビデが怒って訴えるように、ただ滅びることしかありません。 37篇が言う善と悪の区別は、律法や規則を遵守する意味の区分ではありません。もちろん守るべきことを守るということは重要です。しかし、それを守るからといって、ここでいう善と完全に一致するわけではありません。法律的な善のことではなく、宗教的な善のことでもありません。ダビデが言わんと善を言い換えると「心の善」です。宗教に所属しているからといって善ではなく、悪いことをしてないからといって、それが善であるわけでもありません。善、その神様の価値は、37篇のキーワードだけ列挙することで分かると思います。「誠実、喜び、忍耐、期待、柔和、和平、知恵、義、平安…」です。31節では「その心には彼の神のみおしえがあり」と言いました。「神様は善いことを行われる方」ではなく「神様は善」です。神様は善そのものです。私の複雑な心を整理して、その中に神様の心がいつもあることを願います。