伝道者の書 黙想3【神の時、私の時】221213(火) 枝川愛の教会
伝道者の書 3:1~153:1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。3:3 殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。3:4 泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。3:6 求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。3:7 裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。3:9 働く者は労苦して何の益を得るだろうか。3:10 私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。3:13 また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。3:14 私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。3:15 今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。 「すべてのことには定まった時がある」という伝道者の書の3章は、タイミングを待ち、チャンスをつかめということではないと思います。神様の時に逆らうことはできないから、それを知るようにということです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい…しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。11」人間は与えられた時間の中を生きる存在ですから、流れる時間、そして時間と共に変化する様子に対して無能です。それを受け入れるのが知恵です。 それにを知った人間の反応も11節にあります。「神はまた、人の心に永遠を与えられた。11」時間の中に閉じ込められた人間が時間の外を憧れることは当然なことです。どんな失敗をしても、時間が残っていればまだ絶望はないです。神様が時間の中におられるのではなく、神様の中に時間があります。もし時間の中に生きる人が神様を認めないなら、時間の圧迫というものをどのように耐えることができるでしょうか。 神様が定められたゆえに逆らえない時ということを悟った伝道者は、その時間の中に生きる人間が確保しなければならないことを2つに話します。一つは「人が生きている間に喜び楽しむこと12」、もう一つは「人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すこと 13」です。人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すこと、これの時間的設定は「すべての労苦の中」すなわち「生きている間」です。良い時か、悪い時かはわかりません。そのすべての時間に「食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出す」のです。時を知らない人間の忠実な労働、安らぎの安息が与えられた時を幸いにします。